積極的平和主義

 戦没者追悼式。
 天皇は今年も「深い反省」といったようですが、首相は式辞から「反省」はもちろん「歴史」という言葉さえも消し、代わりに「積極的平和主義」という言葉を入れたようです。
 子どもに素直に聞いてみれば、「戦争ではない」のが「平和」で、「平和主義」とは「戦争しない」ことだと答えるでしょう。しかし、それはダメだ、というのでしょう。戦争「しない」なんていう、そんな「消極的」なことではダメだ。いざとなったら戦争「する」ぞという「積極的」な平和主義でないといかん、と。わざわざ「積極的」と付けたのは、そういうことなのでしょう。 
 などと、意味を忖度してみましたが、アジア全体に累々たる屍をもたらしたあの「戦争をはじめる」宣言、「戦争するぞ」という「開戦の詔書」にも、「平和」という言葉が繰り返し使われています。

 朕茲に米國英國に対して戦を宣す」。「億兆一心国家の総力を挙げて征戦の目的を逹成するに遺算なからしむことを期せよ」。
 抑々朕は「世界の平和に寄与する」ことを希求してきた。ところが、中華民国政府は、「東亜の平和を攪乱し」、事変となった。米英両国は、「平和の美名に匿れて」中国を応援し、「帝国の平和的通商」を妨害し、遂に経済断交となった。朕は「事態を平和の裡に回復」せしめんとして「隠忍久しきに彌りたるも、帝国積年の努力は悉く水泡に帰し」た。「事既に此に至る」。「朕は汝有衆の忠誠勇武に信倚し」、「速に禍根を芟除して東亜永遠の平和を確立し、以て帝国の光栄を保全せむことを期す」。

 米英も「平和」という語を使ってるが、あちらのいう平和は「美名」であって、こちらのいう「東亜の平和」がホンモノだ。中国がこちらのいう「平和を撹乱」するから、帝国が大陸に軍を送って奪い侵し殺すという、「積極的」な平和実現行動をとっているのだ。撤兵せよなどいう「東亜平和の撹乱者」米英と、戦争するぞ。

 積極的平和主義、というのは、こういうことでしょう。
 

コロナには氷が効く

 最近は首相より知事の方が有能だ、というのが街の常識になっていますが、どうやらそれは本当のようで、最近、またもや決定的な出来事がありました。

 コロナを前に隠れっぱなしで、旅行に行けいや東京はだめだ帰省はするないやするがよいなどと、何をいっているのかさっぱり分からない首相と政府をよそに、知事は堂々記者会見を開いて、はっきり断固と「コロナにはこれが効く!」と宣言したのですから立派です。日頃信頼している府民のみなさんは急いでイソジンの買い占めに走った、とマスコミは伝えています。

 しかし、買い占めに急いだ府民のみなさんも、速報に急いだ記者のみなさんも、もう少し腰を落ち着けて、知事の言外の声まで聞いてあげるべきでした。知事は「イソジンが効く」とだけいったのではありません。こういったのでした。

 「イソジンでうがいをして口内を殺菌してから唾液を調べれば陰性になります。みなさん、イソジンを買ってうがいをしましょう。氷で脇の下を冷やしてから体温計を挟めば体温は上がりません。みなさん、冷蔵庫で氷を作りましょう。」

 私の知る限り、ここまできちんと報道していたのは、官邸の記者クラブから締め出されている地方新聞の一社だけで、そういうところにも、マスコミの現状が現れています。なお、地方新聞の記事には、次のような独自取材内容もつけられていました。「研究者によれば、氷がない時は保冷剤やドライアイスも代用可能であり、また、空港など額で検温される場合には、30歩ほど手前から額iに氷や保冷剤を当てておけばよいというデータが出ているとのことです。」

 

 

 

 

 

 

不要不急

 東京の一日感染者が過去最高になったという。政府や都のコメントや対応には呆れて何も言う気はないが、昼か夜かにかかわらず、自粛に耐えられずに外に出る人が増えたからでもあるだろう。
 だが、世の中がこうなってくると、ものごとは簡単ではない。
 今なお福島県産だけではなく周辺県の農産物も選ばないという人もいれば、むしろ買って支援しているという人もいる。旅行は控えようという人もいれば、Goto何とかを利用して被災地や被害地に行こうという人もいるだろう。
 不要不急を言い訳けにして好んで引きこもる人もいれば、昼であれ夜であれ、苦境に陥っている業種の店を救い仕事をなくしそうな従業員を救うという名分で街に出向く人もいるだろう。確かに職を失い住むところまで失うと10万円の申請もできない。「すべての国民に」というのは、いつものアベのウソである。
 仕事関連は別として「不要不急」な外出も外食もしないでいるだけでは、加害加担者ともなる昨今である。 
 だが考えてみれば、いや考えるまでもなく、日常も人生も、不要不急でないものはない。

口だけマスク

 

f:id:monduhr:20200624114836j:plain

 公園にも少し人が戻りつつあるようだ。日曜の夕方、あまり人がいない道を選んで歩いてみたが、それでも時折、ジョギングの個人やカップルが通り過ぎる。
 マスクをしていない人もいるが、している人の方が多い。マスクで走るのは苦しくないのだろうか。人の少ない公園で走るときはマスクはなくてもいいと思うのだが、2m以上離れて一瞬すれ違っても、不安を感じる人がいるかもしれない。そういうことも考慮しているのだろう。配慮というか自粛圧力というか。
 マスクといえば先日届いた。幸い巷間報告されているような虫やゴミはないようだが、とにかく小さい。つけている人を見たことがないが、思えば元は税金である。使わない不要品を、全員強制的に買わされたということになる。
 などといってはいけない。ちゃんと利用法がある。公園で走るとき苦しくならない「口だけマスク」。国会で「責任はすべて私にあります」というとき使う「口だけマスク」。

育てられる

 「もしかすると私は、ボーボワール第二の性』のタイトルを誤解していたかもしれなくて、でも私だけなのかどうか、ちょっとした私的アンケートをとっています。どういう意味と思っていますか」。そういうメールがあり、「そういわれると不安になりますが、男が第一で、女が「第二の性」、では」、と答えた。
 何でも、質問者も同じように思っていたところ、西澤直子氏の「福沢諭吉と女性の社会進出」というサイトを読んで、「あれ?、もしかして私は」と思ったとのこと。見てみると、たしかに次のような記述がある。「(福沢は)フランスの文学者ボーヴォワールに先駆けて「第二の性」(生物学的な性とは異なる、社会的に形づくられる性)を説いています。」
 面白いのはアンケートの方で、もちろん極私的範囲に過ぎないが、西澤氏と同じように「第二は社会的性(ジェンダー)」と思っている人も結構いるようだ。他にも、第一の性はメジャーなヘテロで「第二の性LGBT」とかも考えられるし、「女が第二の性だなんて、ボーボワールってひどーい」という声もあったとか。
 タイトルそのものは、男に従属的な「第二の性」を割り当てられている「女」を指すのであって、生物的な性(セックス)を第一として、「社会的に形付けられる」(女あるいは男という)性(ジェンダー)を「第二の性」と名指したものではないだろう。しかし、その本でボーボワールは、女は女として「社会的に形づくられる」といったのであるから、西澤氏も、同じアンケートの答えも、「ひどーい」という感想も、タイトルへの誤解はあっても、内容の誤解ではなく、むしろ内容を受け止めてのことだから、どうという問題ではない。むしろ、僅かではあるとしても時代が進んだが故の「正しい誤解」ともいえるだろう。

 ちなみに、関連して別の人から資料をもらったのだが、日仏女性資料センター研究グループによる訳と対比してみると、旧生島遼一氏の訳と構成は確かに「ひどーい」といわれても仕方がないようだ。
 ただ、原著が出てから間もない時期にとにかく出版したことで、時代の「とき」を背負ったということはあるだろう。例えば第二巻第一章の「女はこうして作られる」という旧訳は、新訳で「女はどう育てられるか」になっている。子ども時代から始まる内容からして、原語の「formation」は「育成」あるいは西澤氏的に「形成」とはいえても「作成」ではないだろうし、だいたい日本語では、天は人を作っても人は人をあまり作らない。「顔を作る、肩を作る」ことはあるが、虎の穴はレスラーを、世間は女を(または、女に、女として)、普通は「作る」よりも「育てる」。「伯爵夫人は彼を女の子として育てた」「バチャ・ポシュとは、男として育てられた女子である」、などとといった文を、「作った、作られた」にはできないだろう。
 ・・・であるのだが、それでも、私を含めてもよいが、ボーボワールは「女はこうして作られる」といったのであったり、「You'd be so nice to come home to」は「帰ってくれればうれしいわ」であったりする。全くの誤訳だ、と何度もくり返し指摘されても、ヘレン・メリルを、夫や恋人が戦地から帰るのを待つ女として聴いた人々にとっては、むしろ不当な指摘のようにさえ聞こえてしまったりする。
 伊藤詩織氏の告発を、男たちが執拗に中傷する中に、女性漫画家も含まれる。「作られる」のなら壊せるが、「育てられる」と、「社会的なものが自然的なもの」として生きられる、ということなのだろう。女も男も、そのように育てられるのだ。

見たくないものを見る

 断りきれずに、zoom会議なるものをしなければいけなくなった。会議ではなく打ち合わせということなので、余計に困る。大体、会議とか打ち合わせとかの席では、誰でも普通、資料を見ている。というより、資料を見ているというポーズさえとっていれば、心がどこかに行っていてもよい。よほどの事項でなければ、適当に聞いて、適当に相槌を打っておけば足りる。
 しかし、zoomとなるとそうもゆかない。だいたい相手も自分も、それぞれカメラまでの距離が近いので、すぐ向かい合わせに顔が見える。近距離でなど見たくない顔を、見ないといけない。目線を外しっぱなしというわけにもゆかないだろう。
 もちろん、取るに足りない悩みだし、在宅ワークそのものは、少なくとも私には大変ありがたい。
 しかし、自粛が解除されても、在宅ワークで味をしめた企業の中には、オフィスのフロアを縮小する動きもあるのだとか。何のことはない。社員の住居の片隅を、会社に提供させようという魂胆らしい。

政治芸

 「わが社は、その協会から350億円で事業の再委託を受け、再々委託事業者選定事業等の事業を約数10億で行って、残りは数社に事業委託しました。民間なので数字を含め細部は公開いたしませんが、そういうことであります」。「うちは7億円で再々々委託事業者選定事業他を行い実質事業は数社に分割委託しました。民間ですので、あとはご容赦ください」。「わが社は3億円余りで再々々々委託を行い・・・」。・・・「うちは何番目ですかね。ともかく・・・」・・・「うちは別に隠すことないから公開しますよ。その事業なら、Yさんところから頼まれて会場を貸しました。いくらもらったのだったか、長年の付き合いだから契約書とか領収書とかそんなものはとってないですが、いずれにしても、5、6千円ってとこじゃなかったですかね。」

 「資料についてきましては、調査するかどうかを検討中とお答えしたわけでありますが、その後暫定的に一部の試行調査をいたしましたところ、一部は発見されたものの、一部に破棄もしくは未記録のものがあることが判明いたしましたので、調査の完全を期する点から、全資料を非公開ということにしたしましたので、調査の無意味化により、本件につきましては、これ以上の調査あるいは再調査は行わないということに決定いたしましたので、公式には資料はございませんとお答えする他なく、本件につきまして、これ以上疑問をもたれるのは自由でございますが、それはすべて裏付け資料のない、根拠なき質問、つまり単なる時間引き伸ばしのための無駄なイチャモンであるという形で報道されますので、多くの国民の方々の間には、これ以上決め手のない無駄なイチャモンはやめて、もっと重要な案件に取り組んでもらいたいというご意見が必ず多くなるはずですので、そのむねご了承いただきます。」

 「決めるのはすべて私でありまして、その件ももちろん私が決めたのでありますが、ただ、省庁の方で決めた案が上がってきたのものをもとに決めたのでありまして、実質的には省庁が決めたのであります。」「本省といたしましては、事案につきまして種々検討の上作成いたしました案を内閣にあげただけでありまして、もちろん法律的にも本省には決定権はございません。」「決定権がない省庁が決定したわけではないというのは、その通りでありまして、省庁で各面から検討したう上で案を決めて、それを上げてきたわけでして、上がってきたものをもとに、最高権限を持つ私が決めたということであります。何度も申している通り、決めたのはもちろん私であります。ただ、決定したのは私ではない、ということをご理解いただきたい。」「・・・いや、だから、決めましたよ。私が決めました。でも、決定したのは私ではない、ということです。」「何度もいってるでしょう。决めたが決定していないんですよ。認めるが認識していない。パンは食べたがご飯は食べていない。忘れたが忘却していない。私はバカだがカバではない。」

 などと、まねしようとおもいましたが、とてもとても、プロにはかないません。