単純な話

 少し補足しておいた方がよいかもしれません。「単純」なものは「単純」だからダメだ、というのは「単純」かどうか。
 有縁社会は、メタレベルの無縁天皇に支えられつつ、無縁の人々を排除差別し、しかも両無縁がつながっているという、ダイナミックな複雑構造をもっているのですから、単純なフラット化や廃止論は無効です・・・というのは、誠にその通りでしょうし、多分そういったつもりなのでしょう。
 けれども、問題は、単純な廃止論を退けるその先で、単純廃止論は単純無効だから有効な複雑廃止論を提唱しようというのか、廃止論は単純無効だから(少なくとも当面は?)存続論に組みしようというのか。どうも単純な道筋で後者にゆくのです。などと書くと、街場の天皇論とかいう本で複雑に存続を論じているのに、読みもしないで単純イチャモンをつけるなと一蹴されるでしょうが。
 不可触賤民を神の子(ハリジャン)といったのはガンジーらしいですが、別に天皇でなくとも、神でも祖先でも王でも何でも、とにかく有縁世間から縁を拒否され差別される卑賤の無縁者が頼れるのは、メタレベルの無縁権力の他にはありません。江戸時代には非人や視覚障害者を「身分保障」したのは将軍でしたが、複雑だからそのままにしておこうとはならずに、単純な身分フラット論者や単純な倒幕論者が、デカイ顔をして東北列藩に襲いかかったのでした。
 それは余計な話であって、私も単純論は嫌いですが、錦旗を掲げた単純官軍が勝つのですからバカにはできません。

天皇とワンマン社長

 たまたま内田白井両氏の対談文庫本に触れていらぬ道草をしましたが、本全体は大変面白く読ませて頂いたということを、改めて記しておきます。最後まで読みました。

 と書いた上での道草もう一つですが、内田氏は、網野史学を踏まえて、こういいます。「天皇というのは無縁の人たちとつながっている。天皇も無縁の人なんですよね。(無縁の)人たちというのは、いわば天皇に身分保証してもらっているわけですから、無縁の人たちは日本社会において非常にダイナミックな役割を果たしてきたと思う。ですから、例えば被差別部落の問題を、~排除して全部フラットにすればいいんだというのはちょっと単純すぎる~。社会的なそういう機能というのは誰かが担保しておかないと~」。で、それを受けて白井氏は、「(そのとおり複雑なんだから)、単純化して(天皇制の)廃止論にもってゆく(のはまちがっている)」、と。
 「身分保障」とか「担保」とかいう言葉がもうひとつ分かりませんが、それはそれとして、ここには、「ですから」という語が二度使われています。それこそ単純化するとこういうことのようです。・・・無縁の人たちは、天皇身分保障をしてもらっているわけ「ですから」ダイナミックな社会的役割を果たしてきた。「ですから」、被差別部落の問題をフラットにすればいいというのは単純すぎる。単純な差別廃止論や天皇制廃止論は駄目だ、反対だ、と。
 網野氏が見事に光を当てたのは、無縁の人たちが、中世をはじめとする「日本社会において非常にダイナミックな役割を果たしてきた」という歴史的事実です。また例えば特定の被差別部落の人たちが天皇の棺を担ぐといった「つながり」があったとかも事実でしょう。
 しかし、そのような歴史的事実の次元(真偽が問題になる次元)の話に、「ですから」「ですから」と続けて、被差別部落の「フラット」論とか天皇制の「廃止」論といった(単純な)主張は駄目だ、と論結するのは、ちょっと単純な話の運びでしょう。

 「日本社会」という大きなものとは限らず、縁(関係性の絆)で縛られた社会システムがあって、その「上」でも「外」でもいいのですが、ともかくメタレベルに、「縛る-縛られる」有縁システムに「縛られない」、自由で無縁な何かが君臨して、システムをひとつに縛るという機能を果たします。他方、「下」でも「外」でもいいのですが、ともかくシステムから排除され差別される、自由で無縁な人々が、それゆえの不可欠な社会的機能を果たします。で、下の自由と上の自由が、どこかで通底もするでしょう。
 などと、ややこしい言い方をしましたが、天皇でなくても、将軍が白拍子世阿弥のような芸能者を寵愛したり、その他システムあるところどこにもある構図です。そんな昔のことでなくても、例えば、社則に縛られることで会社に所属している社員を、社則に縛られないワンマン社長が統括している一方で、社員外雇用者扱いの掃除夫が、課長クラスでさえ入ったことのない社長室に毎日掃除に入り、たまには「ごくろうさん」と声のひとつも掛けられたり。だからといって、ですから掃除夫もフラットに正社員にしようとか、時代遅れのワンマン経営方式は即改革しようとかいうのは単純論だと退けるべきだとはならないでしょう。いや、そう主張してももちろんいいですが、ワンマン社長と非正規掃除夫を含めた複雑システムが機能しているという事実次元から、「ですから」単純な改革廃止論を退けるというのは、ちょっと単純すぎる気がします。

 いやまあ、どうでもいい話であって、対談本は面白く読ませてもらいましたが。

平成と沖縄

 (承前)もうひとつ。メタレベルの社会的機能を生身の人間に背負わせるのが問題なのは、せっかく象徴機能だけに切り替えたとしても、象徴的(非歴史的)機能と生身的(歴史的)存在は切り離せないということです。どうがんばっても昭和天皇には、当人としても国民から見ても、大元帥だった「昭和」前半の背後霊が消せませんでした。両氏が上皇に感激したのは、確かに当人夫妻が「機能を生きる」という矛盾を歩むよくできた人物だったからでしょうが、それができたのも「平成」だったからでしょう。いうならば「平成」はきれいだったわけです。
 同様に、空間的にも、明治以降の併合地、植民地、占領地、支配地、権益地などは、「昭和」が敗戦とともにまとめてサッパリと<処分>してくれました。「北方尖閣竹島」を除けば、内田氏らが「愛国」だという際のその「国」は、平成を通して安定しています。天皇が象徴としてまとめる国とはどこからどこまでか、総意で支える国民とは誰であり誰でないか、といったややこしい問題は考えなくてよかったわけです。
 そこでちょっと横道といえば横道なのですが、ある箇所で内田氏は、ミッドウェーで手ひどくやられた時点で、冷静に判断して戦争を「やめていればよかった」と、誠にもっともなことを書いています。その通りだと思いますが、そこで、こう続けているのです。もしその時点で「講和」が「奏功していれば」、その後の「大量の戦死者も本土空襲の死者も、広島、長崎の原爆の被害者も出さずに済んだ」、と。漏れている死者がいろいろあるのは仕方ないでしょうが、ここには沖縄の死者はあげられていません。琉球王国を潰してまだ年月が浅く、戦争では本土の防波堤として使い、戦後は本土独立と引き換えに差し出した沖縄。10回以上も沖縄を訪れた平成天皇は、「国」と「国民」の統合を象徴的に生きようとすれば、沖縄を「切り離さい」というメッセージが何より重要だということに、深く気付いていたのでしょう。もちろん内田氏は愛国者として、沖縄の国土を旧敵国基地に差し出したままで何が独立国か、と繰り返しいいますが、こんなところでサラッと沖縄(琉球)を切り離しています。
 ついでに内田氏の「もしも」は、あの時点でもしも「講和が奏功していれば」であって、「負けていれば」ではありません。もしもあの時点で「講和が奏功していれば」、他の地域はともかく、台湾と朝鮮はそのままだったでしょう。いつまでかは別にして、少なくとも「講和」の時点では。しかしその点も、触れずにサラッと流されています。
 確か聖火リレーの観客の話だったはずなのに、何だかおかしなところに来てしまいました。
 いずれにしても、実にあいまいな「国」なるものの統合を象徴するというメタレベルの(時空を超えた)社会的機能を、しかもこの世で(時空に縛られて)生きる。そんな無茶なことを「総意」で押し付けられて、両氏を感心させるほど見事に、考え抜いてそれを演じるアクターなんて、何代も続くわけはありません。たかが結婚することにも結婚に失敗することにも、山ほど執拗な誹謗中傷が投げつけられる。全く割に合わない残酷な話です。それでも制度が必要というのなら、期限を限って民営化する他ないでしょう。生前退位という前例は、そこまで見据えてた案だったのかもしれません。などということはないでしょうが。
 

犠牲的アクター

 眠くなって途中で(続く)にしてしまい、何を書いていた忘れましたが、とにかく、イベントにはメタレベルの存在が、不可欠だというほどではないにしても、あれば便利だ、という単純な話をしていたのでした。内田氏は網野史学などを引いて難しそうに言っていますが、要するに複雑重層的な歴史社会のダイナミックなシステム維持には、天皇というメタレベルの「アクター」が、不可欠とはいわないまでも重要な社会的機能を果たすのであって、単純な否定論者は、そこのところを無視した考えの浅い連中だ、ということになるようです。

 ただ、問題の一つは、メタレベルつまり世間を超えたアクターが、今の世にいるかどうかということです。いっそ天にいる神とかビッグ・ブラザーとかいうバーチャルな存在(非存在)に引き受けてもらうという手もありますが、それはそれで構築と維持が大変です。だから生身のアクターが便利なのですが、「世間からの超越」は生身に翻訳すると「世間からの追放」ですので、そんな後に引けない絶対損の役回りを引き受けてくれるような生身の人物が、これからもずっといてくれる保証はないでしょう。だからこそ、上皇の「お言葉」は、まさに理想的な選手宣誓だった、と両氏はともども感心するのですが、それでも、「国民の総意」に基づくアクト(演技)とは何かということを、本気で真剣に考え抜いて、そのために生身を犠牲として差し出してくれるような便利なアクターが、今後とも続くかどうか。またもしいたとしても、その犠牲を強要することが、われわれには許されるのかどうか。

 ということなので、どうでしょうか。「代行アクター」と内田氏はいうのですから、民営化して、国民の総意が集まる俳優(アクター)さんに、期限付きで引き受けて頂くという民営化推進協会案は。社会的に重要な機能があるのだから単純否定は無責任だと内田氏はいうようですが、もし大統領制のような形より、メタレベルの権威を担うアクターを別に置く方が便利だというのなら、リクスのある生身の誰かに押し付け続けるのではなく、一歩進んで、交代可能は人気いや任期つき天皇アクターという民営化協会案に賛同されればいかがでしょうか。なお、私は賛同していますと書きましたが、昔からほんとは賛同していませんが。(続く)

ゴリンと天皇

 少なくとも今のこころは何としてもやめないらしく、ということで、どこかで聖火ランナーが走っているのでしょう。
 走りたい人の気持ちは分からないでもありません。道をチンタラ走るだけで拍手してもらえ、地方テレビニュースに映ったりもするのですから。
 しかし、分からないのは見る方です。タレントなら別ですが、誰とも知らない人たちがダラダラ走っているのをわざわざ見にゆくというのは、どういう気持ちからなのでしょうか。
 福島では、まだ帰れない避難者が、通りに出れば見られる聖火ランを無視していたそうですが、わざわざ結構な人出の道に出かける人は、たぶん、実際に何かを見たいというよりは、「一生のうちに一度しか体験できない」イベントへの参加感をえるために沿道に立つのでしょう。そういえばNHKは、「ゴリン反対」という沿道の声を消したそうですが、反対があってはイベントの値打ちが下がるからでしょう。
 そういえば、柳美里の描くホームレスは、皇族の車が通る度に住まいのテントを撤去させられながら、それでも通りすぎる皇族の車に手を振ります。おそらく、何か大いなるものに囲われる一体感、とでもいったことなのでしょう。

 内田樹氏と白井聡氏の対談本を、結構面白く読みましたが、永続敗戦によりアメリカ支配が続いている戦後レジームに痛憤する両氏は、「愛国者」として天皇制を擁護しています。天皇制は非民主的だなどというが、じゃ君主のいるイギリスは非民主的というのか、逆に君主のいないアメリカに非民主的な人種差別があるじゃないか。上皇の「お言葉」こそ、君主のいる民主制国家という問題を考え抜いた立派な解であって、天皇の社会的機能を考えもしない原理だけの天皇制反対は余りにも単純すぎる、など。
 ということで、内田氏はいいます。天皇制を廃止しろというが、じゃあそのあとに、どんなアクターに天皇の機能を代行させるのか、その道筋を立てない廃止論は無責任だ、と。そんなわけで、昔から私は、天皇制民営化に賛同しているのです。(続く)

すばらしきゴリン

 これほどの状況下で、まだ五輪中止を決められないでいます。
 あの年、開戦すれば敗戦必死と予想しながら、中止という一言を、天皇は自分は言い出す立場にないと逃げ、陸軍と海軍は、相手が言うならともかく自分からは言えないと、互いに中止責任をとらないまま、それでも準備だけは進めているうちに、気がつけば引き返せない開戦予定日が来てしまったのでした。
 それにしても、宣言を出しては小出し延期で切り上げて波を招き、まんえん防止も緊急事態再宣言も出し惜しんではまた効果なく延期していつうちに、悲惨な医療崩壊を招き寄せてしまいました。現場の方々はやりきれない気持ちでしょう。
 思えば、楽観的な現状把握と見通しのない作戦で始めたガダルカナル戦では、敗退の都度限定的な兵力を逐次投入して再敗退を繰り返し、遂には撤退もできずに島内を敗残彷徨して餓死してゆくという悲惨な事態に陥ったのでした。
 5百人の看護師を集められるが、それは看護師が足りずに入院を受けられない病院にまわさずに、ゴリンにまわす。ワクチンが別途確保できるが、それは未接種の医療関係者にまわさずに、ゴリンにまわす。国民の命より優先とは、ゴリンとは、何とすばらしいものなのでしょうか。