ぼったくり男爵とアスリートファースト

 「六斉の前に六斉なく六斉の後に六斉なし」といわれた、六斉こと越前屋常衛門は、妻子に去られ菜種油問屋として知られた大店の身代を潰してもなお道楽をやめず、遂には虎の蚤を求めて千島海峡を渡り西伯利亜の密林に消えたと伝えられています。彼の道楽は、選ばれた美蚤を自らの肌で育て、その大きさと色つやを競うという「蚤較べ」でした。全国を求め歩いて得た優れた蚤種を慎重に繁殖させる傍ら、美食によって自らの血質を高め、求道辛苦して作り上げた六斉紅玉と呼ばれる彼の蚤は、誠に見事なものだったと伝えられています。しかし如何んせん蚤較べは、極少の同好者以外には大層嫌われ、維新を待たずに消滅してしまいます。
 そんな道楽を惜しむ気持ちは全くありませんが、しかし、もとより道楽に貴賤上下はありません。スポーツもまた道楽のひとつであって、アスリートファーストなら蚤較べもファーストでなければなりません。

 ところで、漱石は「職業」と「道楽」を対比しましたが、「苦」と引き換えに金を得る職業とは反対に、道楽は金で「楽」を買うものであって、身銭を切るのが当然の道です。ただし漱石の二分法は、「見世物」つまり「道楽芸を見る道楽」を見落としています。見る道楽者が道楽に金を払うことで、見られる道楽芸人が金を稼ぎ、こうして彼の道楽は職業に変身するのです。といっても、どんな道楽も変身できるというわけではもちろんなく、見世物として稼げる道楽芸は極く一部に過ぎません。

 そこに登場するのが興行師です。「ぼったくり男爵」いや爵位などない「ぼったくり親父」が、自分たちだけでは金を稼げない道楽種目を見繕って五輪祭なるものをデッチあげ、ぼったくって懐に入れた残額を、マイナー道楽にも分配したりするというプロジェクトを地元に押し付けます。
 ということで、それなりに道楽を極めた上手名人が、お国を背負わされファーストと呼ばれて「元気にする」と舞い上がれば、都の人々の一部も一人3万円といわれる拠金のことなど忘れて、テレビの前で「チャチャチャ」と囃子立てる3週間、となるのかどうか。
 ・・・ふざけてはいけません。あとは真面目に、引用だけさせて頂きます。

 「安倍政権以来、為政者が「政治的判断について合理的根拠を示さない」ということに日本人はもうすっかり慣れてしまったようだ。日本人はある時点から政治家に「自分たちを説得してくれ」と求めることを止めてしまったらしい。「自分が下した判断についてその根拠を示さないでも罰されない者」のことを「権力者」と呼ぶ、ということがいつの間にか日本社会の常識に登録されてしまったからだろう。
 政府が国民的反対を押し切ってまで五輪の強行開催に固執するのは、そうすれば、自分たちがどれほどの権力を持つか、国民がいかに無力かを思い知らせることができると思っているからである。
 今回の五輪が無理押しできるようであれば、これ以後はもうどのような無法についても、国民は黙って従うだろう。」
 (内田樹「座視できない五輪の無理押し 今こそ再び、五輪中止を求める」:AERA) 

 何を「する」のか

 寝る前に、適当なことを書いているだけなので、さしたる脈絡もなく恐縮ですが、何か元の道に戻っていない感じが残っているので、もう少しだけ。

 人が何かを「した」ことで、その責任を問われるかどうかを分けるのは、そのことを、故意にというか、「しようとしてしてした」のかどうか、ということでしょう。「しないことも可能だと分かっていて、しようとして、した」場合には責任を免れないし、逆に心神喪失で「した」ことの責任は、問えないことになっています。

 ただ、物事はもちろん簡単ではありません。
 まず私は、一体何を「しよう」として、何を「する」のでしょうか。
 ティッシュをもらうのももらわないのも「自由だ」と意識して、私がそれをもらったとして、しかし私は、例えば「右手で受け取った」ことは分かっているでしょうが、左手はどうだったか、足はどちらが前だった?と聞かれると、だんだん怪しくなってゆくでしょう。

 少し前、私は、ティッシュをもらうためにちょっと時間稼ぎをして、そして駅前に「戻ろう」と「した」のでした。「戻ろう」と私が意識することで、私の身体は「歩き」始めます。私が「飛ぶ」や「跳ぶ」を選択肢としてもたないというのは、意識に上らない(無意識領域の)条件あるいは制約ですが、「歩く」意識もまた、「戻る」意識と全く同等な現れ方はしません。意識を失うと歩くことができずに倒れてしまいますが、「歩こう」という身体意識は、「戻ろう」という目的意識の背後に、いわば半透明に統合されて、私は「歩いて戻ろう-と-する」という二重性をひとつにまとめて体現します。などと、全くいい加減で訳のわからない言い方で申し訳けありませんが、次に進みます。
 そこで私は駅前に戻って彼女に近づき、ティッシュを「もらう」、つまり、手を出してティッシュを「受け取り」ます。「歩いて-戻る」と同じく、ここでも「受けて-とる」という二重性が見られますが、ここでは、「受ける(受動)」「取る(能動)」と、能動/受動が重ねられます。(さらに、素通りする通行人が多いのを見て、私の意識には、「もらって-あげる」という、二重性もかすめたかもしれません)。
 わけが分からなくなりましたが、とにかく、ティッシュをもらうのも、もらわないのも「自由だ!」と、犬井ヒロシがいうとき、彼の「自由の意識」を疑う必要は全くありませんが、ただ、彼は何を「した」のか、そして、彼にどんな「したこと」の責任を問えるのかは、単純ではないようです。(寝ることにして、続きます)

勝手に自由

 いや、ただ不自由の無意識を突きつけたというのではなく、そこに文法を見つけたところが確かに面白かったのですが、いずれにしても、今さら口出しする見識も意図もありませんし、ほとんど消えたように見える横道なので、元に戻ります。

 といいながら「元」というのがどこだったのか忘れましたが、ともかく、自由という問題が庶民レベルで厄介なのは、それが責任の問題と結び付けられるところにあります。
 だれかが何かを自由に「した」と思おうが、「させられた」と思おうが、あるいは実際にそうであろうがあるまいが、それ自体は他人ごとというかどうでもよいことなのですが、仮にだれかが、何かをするにあたって、「私はそうしないこともできるしすることもできる。そんな自由な主体として、私はいま、だれにさせられるのでもなく、自らしようと思ってそうするのだ」と大層な意識をもったり言ったりするという、そういうことはありうるでしょう。一方また、評論家とか神様とかが、「そんなこといっても無意識の忖度が働いているのだ」とか「「させられているのではなくするのだ」、と意識させられているのだ」とかいうことも、もちろんありうるでしょうし、それはそうかもしれません。
 としても、そんなことはどちらでもいいし、繰り返しますが二者択一でもないし、それでもだれかが、「私は人としてそうする自由をもっている」とか「私は自分がそうしようと思うことをしようと思う」、とかいった自己意識をもったり言ったりすることに、私はケチをつけようとは毛頭思いません。(まだ)

自由だぁ~!

 さて、そんなわけで、といってもどんなわけか前回のことは忘れましたが、普通に暮らしている限りでは、自由と不自由は地続きというか裏表というか、ごちゃごちゃになっていて、だから実に厄介でもあれば、だから世の中何とか動いてもいるのだろうという程度のことは、学者世界のことは分かりませんが、庶民はおそらく日々体感しています。

 させられているのかしているのか、させられているからするのか、られなければしないのか、こんな仕事させられてやってられないと思いつつ、あと少しだから今日中にと思ったとたん、普段は人使いの悪い課長が「今月はもう残業つけられないから、上がってくれや」といったりするのを、課長はほんとに帰らせようとしているのか、それとも本音は残業代なしでやらせようとしているのか分からないままに、結局こんな仕事を明日まで持ち越すよりはと思い直しやり終えて、やれやれと駅前まで来ると、ティッシュ配りのバイトの子がかわいいので手を出そうとすると、ちょうど手持ちのティッシュが切れて、箱から出そうとしているので、立ち止まって待っているのも何だしと、通り過ぎたのだけれど、そこで・・・一回りして来てティッシュをもらうのも、あきらめてそのまま改札口に向かうのも・・・自由だぁ!・・・ティッシュ is Freedom ! ティッシュ is Freedom !

 犬井ヒロシのサングラスはベルモントを意識しているのかどうか知りませんが、「気狂いピエロ」が出た時代まで一世を風靡した、人間は「自由だ!」といった哲学者は、やがて群論と人類学を重ねた学者の批判がきっかけで、以後は彼を攻撃するのが流行りとなり、「現代」をけなすのが「現代」思想だとなってゆきます。人間は自由な主体でなく、オリジナルな作者でありえず、人間の時代はオワタ、ということになるのですが、「自由の意識」に「不自由の無意識」を突きつけてみても、学者世界では知らず、庶民の生活次元では、それがどうしたということで、いつの間にか、どうなったのか分からなくなっているようです。(また横道に入ってしまったので、あと少し)

ろくでもない連中を当選させて、ろくでもない目にあってしまう

 最近のことについては、もう書く気もしないのですが、それにしてもますますひどいこと、あきれるばかりです。とはいえ、ああいう連中の権力は、当選に由来するのですから、つまりわれわれが、ああいう連中にああいうあきれるようなことをさせたり、言わせたりしているわけで、思えばますます暗澹たる気持ちになるばかりです。オリパラも、スポンサーのマスコミは、片隅良心の証拠を社説やコラムに残しておくだけで、スポーツ欄ではすっかりやる気ですし、みんさんの気持ちも少しづつ動いて、もし始まれば、たとえコロナの新たな波が来たとしても、「ニッポン」を応援しするのでしょう。もはや何をかいわんや。

自由ではなく自由に決める

 義理人情のしがらみ話など掃いて捨てるほどありますので、何でもいいのですが、忘れていた岩明均ヒストリエ』の10,11巻を買って今手元にありますので、さしあたりそれにしましょう。

 主人公の書記官エウメネスは、名門将軍の姪エウリュディケと思いあう仲なのですが、突如、彼女がフィリッポス王の第七王妃になることを知らされ、彼女に会いにゆきます。

 「第七王妃になるんだって」
 「そう。わりと急な話だったんだけどね」

 「あなたには・・・申し訳ないと思ってるわ。ごめんなさい」
 「きみの気持ちはどうなんだよ! きみの・・・!」
 「女の気持ちは関係ない・・・わが一族の誉れよ。私自身光栄の至り」

 そして彼女は、こういいます。
 「たとえ奴隷の身分でなくとも、誰もが憧れている"自由"は、結局は柵で囲われた「庭」なんだと思う。広い狭いの違いはあっても、地平線まで続く"自由"なんてありえない」

 エウメネスは返します。
 「柵か・・・ ~ 本当に囲いがあるのか見に行ってみようよ。ひょっとしたら地平線の先まで、柵なんて無いかもしれない」
 「行こう!王妃なんかやめちまえって!」
 しかしエウリュディケは動きません。

 「もう・・・決めたのか・・・」
 「うん・・・」
 彼女の頬を涙が伝います。

 エウリュディケは「自由」ではありません。しかし「自ら決めた」のです。彼女は、王妃に「された」が王妃に「なった」。もちろん王との婚礼もカツアゲも、特殊場面ではありません。「誰もが」自由に憧れ、しかし自由ではなく、けれども自由に「決める」のです。(もう少し)

させられなくてする

 やたら学者とか文献とかが出てくるような本はたていてい面白くありませんが、趣味の世界というのはそういうものですから仕方ありません。例えば、普通にしていれば時間とは何か分かっているのに考えようとすると分からなくなる、というようなことを、アウグスティヌスだったか他の人だったかが言ったそうですが、なら考えなければいいじゃないかと思うのが健康的な庶民で、でもそういう趣味の世界があって、例えば、時間は連続しているのか、しているとすればどんな種類の連続かとか、時間のはじまりはビッグバンからか、もしかして5分前からかも、などといった話を楽しんでいるわけです。

 で、自由というのも、その手の古典的な話題ですが、西洋では、結構真剣に議論しなければならない事情があって、あちらでは、世の中はすべて神様が動かしているのに、何事にせよ責任は人間がとらねばならないという、やっかいな問題がありますので、自由意志なるものが、神学とか哲学とかの学者世界で問題であり続けてきたわけです。
 しかしわれわれ庶民の間では、例えば町内旅行会のチラシに、「参加自由」とか「自由時間」とか「自由席」とか書いてあったとして、それらの意味は「必要十分」に分かります。それも、「お持ち帰り自由っていったって、あんた、そんなにもらったらまずいでしょう」、などと複雑なわけです。

 そこで、「する/される」と「させる/させられる」ですが、自由な行動(自由意志による行動)とは、「させられてするのではなくする」行動だといってよいように見えます。仮に、何かを「させる」ものを(神様ではなく)権力といっておけば、権力に「させられるのではなく自ら進んでする」行動で、そんな行動があるのかどうか、そんな自由意志なるものがあるのかどうか、なのですが。
 いずれにしても、しかし、カツアゲのような明白単純な関係行動などというものは基本的に子ども世界の話であって、大人の世界には実に悪い奴がいて、「彼が勝手に「した」だけだ、私は何も「していない」」、などといい、可哀そうな彼は、勝手に忖度を「して」勝手に書類の破棄を「した」ということに「されて」しまいます。もちろん、「忖度させられた」「破棄させられた」のであって、つまり「せざるをえないようにさせられた」のだ、と同情する人も少なくないのですが、悪い奴らは巧妙で厚顔ですから、破棄「しろ」忖度「しろ」などと言っていない、つまり「させた」のではないから「させられた」などというのはイチャモンだ、と開き直り、彼を罰したりまでするのです。(まだ続く)