白洲次郎という人(番外)

 今日の新聞に、「佐渡国独立構想」の記事がありました。白洲について、もうひとつ、書こうと思いながらやめたことがありましたので、それを番外編として追加します。
 「サンフランシスコ平和会議の受諾演説の際、吉田は横書きの原稿ではなく、あえて巻物に書いた文章を読んで演説を行ったが、当時の現地メディアから、「巨大なトイレットペーパー状のものを読み上げた」と書かれるなどした。当の吉田も後に回顧録で「結局最後まで嫌々我慢しながら読み続けた」と語っている。」
 「(白洲は)1951年(昭和26年)9月、サンフランシスコ講和会議に全権団顧問として随行する。この時、首席全権であった吉田首相の受諾演説の原稿が、GHQに対する美辞麗句を並べ、かつ英語で書かれていたことに激怒、「講和会議というものは、戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず。その晴れの日の原稿を、相手方と相談した上に、相手側の言葉で書く馬鹿がどこにいるか!」と一喝、受諾演説原稿は急遽日本語に変更され、随行員が手分けして和紙に毛筆で書いたものを繋ぎ合わせた長さ30mにも及ぶ巻物となり、内容には奄美諸島琉球諸島(沖縄)並びに小笠原諸島等の施政権返還が盛り込まれた。」
Wikipedia白洲次郎」の項目より
 ここでも、「激怒」して「一喝」した、と書かれています。異常な瞬間沸騰頭ですね。別に怒声で一喝などしなくとも、受諾演説は日本語で話すべきだと思ったのなら、普通の声でそう指摘すればすむことです。たとえ随行員が渋ったとしても、「激怒一喝」で自説を押し通そうというのは、「筋を通して主張する」のとは正反対。やはり性格的に問題のある人だったのでしょう。
 しかし、今日書くつもりなのは、そのことではありません。白洲が受諾演説を書き直させた際に、「内容には奄美諸島琉球諸島(沖縄)並びに小笠原諸島等の施政権返還が盛り込まれた」、というくだりです。実際にはどうだったのかは分かりませんが、これもまた、「日本政府や日本人が従順だった流れに逆らい、白洲がひとり、受諾演説の中に、日本領土の返還主張を盛り込ませた」、という文脈でいわれています。この文脈そのものが実にいい加減なフィクションでしかないということは繰り返しませんが、仮にこのエピソードが事実であったとして、この「書き加え」は、どういう歴史的意味をもっているのでしょうか。
 「琉球(沖縄)」のことだけに絞ります。
 かつて東アジアの海上に、美しい王国がありました。だが、近世から近代にかけて、その国は、ヤマトに蹂躙され続けます。
 第一。島津侵攻。これで琉球は幕府に間接支配されるようになります。
 第二。琉球処分。これで沖縄は「日本」だとされます。大日本帝国は、編入した琉球の言葉や文化を破壊してゆきます。
 第三。沖縄戦。だが沖縄は「日本本土」ではないとされ、琉球は、本土を守る盾に使われます。
 第四。サンフランシスコ講和条約。これで琉球は、「日本」から切り離され、日本は琉球を提供することと引き替えに、アメリカと単独講和を結びます。
 第五。沖縄返還。沖縄は「日本本土」とは同じには扱えないとされ、琉球の施政権は「日本政府」が握るが、その土地の大部分はアメリカが軍用基地として使用し続けることを認めるという、「基地付き返還」となります。
 以上、琉球から見れば、蹂躙と差別の歴史です。それ以外の何ものでもありません。
 当然、琉球独立運動は、琉球処分以来脈々と続いており、最近でも、沖縄県民の内、自らが日本人ではなく沖縄人であると答えた人が40%ほどおり、県民の4人〜5人に一人は「沖縄は独立すべきだ」という意見だそうです(琉球新報2007年11月29日報道)。
 そこで、この流れの中に、上記白洲の「書き加え」を置いてみましょう。
 私の下手な歴史解説より、ここでもWikipediaさんにご足労願います。少し長いのですが、重要なことなのでそのままにします。 
 「(前史略)〜アメリカ統治下:1945年の太平洋戦争終結後、日本を占領したアメリカは、旧琉球王国領である沖縄県及び鹿児島県奄美諸島を日本より割譲、信託統治領として軍政下においた。これはかつて琉球王国があった1854年に、那覇を訪れたペリー提督の艦隊により琉米修好条約を締結した歴史を持つアメリカ側が、日本と琉球は本来異なる国家、民族であるという認識を持っていたことが主な理由だった。また、この割譲はアメリカにとって「帝国主義の圧政下にあった少数民族の解放」という、自由民主思想のプロパガンダ的意味もあった。ファシズムに勝利したという二次大戦直後の国内の自由と民主主義への期待と高揚から、統治当初は、アメリカ主導での将来的な琉球国独立の構想が検討されてもいた。
 占領国アメリカがこの認識を持って日本領を分割したことは、日本側にも大きな影響を与えることとなり、自らを琉球民族と定義する人々のナショナリズムを刺激し、琉球独立運動の動機となった。
 そうした時代背景から誕生した琉球独立運動では、日琉同祖論に倣い琉球民族日本民族の傍系であるとは認めつつも、琉球民族は歴史的に独自の発展を遂げて独立した民族になったと主張し、明治時代より強引に同化政策を施されはしたが、日本の敗戦により再び琉球人になり、アメリ信託統治を経て独立国家になるだろう、と予測した。本土では、戦後沖縄人連盟などが結成され、一部の連盟加盟者から独立への主張もなされていた。また、戦後日本共産党(沖縄民族の独立を祝うメッセージ)や日本社会党琉球民族大日本帝国に抑圧されていたと規定し、表面上、沖縄独立支持を表明した。
 一方、米軍統治下の旧琉球王国領では、米影響下からの独立を企図して、非合法組織ではあるが、奄美共産党奄美大島社会民主党)、次いで沖縄共産党沖縄人民党)が結成された。奄美共産党の初期目標には「奄美民共和国」の建国が掲げられていた。
 しかし、住民の多くは日本への復帰を望んでいたため、その後、これらの政党は独立から復帰へと活動目標が変更された。奄美共産党は、日本復帰運動の中心的役割を果たしている。沖縄・奄美の両共産党は、それぞれの地域の日本復帰後に日本共産党に合流した。
 戦後初期の独立論は、米軍を「解放軍」と捉える風潮が広がったことと密接に絡んでいた。ところが1950年代以降になると、冷戦を背景にアメリカ国内で沖縄の戦略上の価値が認識され、アメリカの沖縄統治の性格は軍事拠点の維持優先へと偏重していった。米軍政下の厳しい言論統制や度重なる強圧的な軍用地接収、琉球人への米兵の加害行為の頻発により「米軍=解放軍」の考えは幻想だったという認識が県民の間に広まり、一転して「平和憲法下の日本への復帰」への期待が高まる。こうした流れの中で、独立論は本土復帰運動の中に飲み込まれていった。
 いったん沈静化した独立論は、1972年の沖縄返還が近づくにつれ、「反復帰論」として再び盛り上がりをみせる。背景には、復帰交渉において日本政府が在沖米軍基地の現状について米軍の要求をほぼ丸飲みし続け、沖縄県民が期待した「本土並み復帰」が果たされないことが明確になったことから、日本政府への不信感が高まったことがある。さらに1979年が明治政府の琉球処分から100年目にあたることもあり、「琉球文化の独自性を見直そう」といった集会が沖縄各地で活発に開かれた。
 1977年には、当時の平良幸市知事が年頭記者会見で「沖縄の文化に対する認識を新たにしよう」と、反復帰論を意識した提唱を行った。
 しかし、70年代の独立論は政治運動化せず、文化復興運動として落ち着いた。」
=Wikipedesia「琉球独立運動」の項目(→ ここより)
 かつての独立国が、一旦暴力的に強大国に併合されてしまうと、その後の分離独立運動が、国際政治力学の結び目の中で、いかに難しく苦難に満ちた道を歩まねばならないかは、チベットをはじめ世界中至るところで見ることができます。
 琉球独立運動は、おそらく唯一、アメリカ統治下からの独立という形で、現実化するチャンスがあったかもしれない、ということなのでしょう。もちろん、それが島民の望む平和な「琉球共和国」を結果しえたのかどうかについては別問題なのでしょうが。
 そこで、白洲に戻ります。
 1)吉田政府は、国際的にもまた国内的にも多くの全面講和の声を押し潰してアメリカとの単独講和を強行し、同時に日米安保条約を締結します。その講和条約で、日本は、琉球の土地と住民の生活を、平和憲法下の日本領土から切り離して、アメリカの統治下に委ね、自由な軍事基地使用ができる島として提供したわけです。吉田の腰巾着白洲は、その講和条約締結の代表団に随員として加わったわけです。
 2)しかも、白洲が追加した(?)のかどうかは分かりませんが、受諾演説の「琉球諸島(沖縄)〜の施政権返還」という文言は、暫くの間琉球を、アメリカの自由な基地利用に委ねた上で、いずれはまた自らの施政下に返還させようという目論見の表明です。どこまで意図的だったかは別としても、単独講和で「見捨て」た後にありうる「琉球独立」の道を潰して、見捨てた日本が再びその「返還」を受けようという政治意図の現れに他なりません。
 つまり白洲の立場は、琉球アメリカに売り渡して自由な軍事基地化に委ねた上で、いずれ返してもらおうということであり、いわゆる「基地付き返還」への流れの上にあるわけです。アメリカにとって最も都合のよい路線ではないですか。何が「抵抗」なものですか。