ライト(14)

 「合法性が正当性を虐殺する」というのは、48年のパリならずとも、もちろん私たちの時代に屡々あることですし、そういった場合には合法性と闘う正当性の側に加担すること、やぶさかではないのですが、しかしながら昨今では、なかなか一筋縄ではゆかないようです。
 「合法性」の次元での「法」が、支配構造の安定保持装置として作られるものであることは改めていうまでもありませんが、それだけでなく、法は、それが作られた後もしばしば、権力からはもちろん、その他様々な社会的介入にさらされます。けれども、私たちの時代は、社会つまり「世間」が多様な利害と価値の錯綜からなっていることを前提とした権力システムをとっていますので、法は、曲がりなりにも、あるいは見かけだけではあっても、一応の独立性を確保しています。つまり法曹界とは、あえて「世間知らず」のプロが、世間の利害から隔絶した仕事をする世界だと、自他共に見なされます。
 もちろん、そのような「世間離れ」した合法性は、世間の多様な自己「正当性」から異議申し立てを受けたりしますが、「合法性が正当性を虐殺するのか」という声は、私たちが法治主義体制を選んだ以上、建前上はそのつど無視されます。
 ところが、狭い個別利害はともかく、かなりの多数者が、共通に感じるある種の「正当性」というものが、時に応じて大きく育ったりすると、それが「社会的正義」などと呼ばれたりすることが起こります。
 例えば、庶民誰もが実に「不当な」悪だと感じる行為や人物があって、それだのに、その行為や人物が法の網を逃れ、法に守られて「合法的」とされたとします。そのとき、世間は、往々にして「社会的正義」を発動させ、世間離れした「合法性」によって虐殺されようとする「正当性」に立って、必殺仕置人を呼び寄せたりします。
 例えば、「平成の鬼平中坊公平という人は、こうしたヒーローの典型だったと、魚住昭、前田年昭をはじめとする方々が指摘されています。
 「世間離れ」を敢えて省みず、六法全書と膨大な判例から「合法性」を巡って議論をする「プロ」とは異なり、庶民の「正当性」の側に立とうとするのが、鬼平流です。世間から見れば「悪徳商人」以外の何者でもないにもかかわらず、法の編目を潜りすり抜けて蓄財を重ねている越後屋。そして、越後屋の「悪」を追求処断できず、それどころかその「合法性」をあるいは弁護する法曹界。人々は、「世間離れ」した法曹世界から、庶民の生きる世間へと踏みだし、庶民的感覚に立った「社会的正義」の実現に献身することを社会的責務として意識する法曹人を熱く迎えます。