鴎外の墓碑銘

 (承前)肩書き不要という遺書で、「体制エリートとしての権威も名声も、彼にとっては不本意な仮の姿だった」と、名声とみに高いようですが・・・
 鴎外ほどの手練れが、「自らの遺言が<名声にこだわらないという名声>を高めることになる」ということを見通せなかった筈がありません。
 ちなみに、司馬遼太郎という人は、有名人と対談したりするだけでなく、いろんな地方に出掛けた旅先でも、その土地の人々と会って話をしていたようですが、お付きの編集者がどこかのコラムで、こんなことを書いていたのを読んだ記憶があります。もしかしたら司馬遼太郎ではなく、他の人だったかもしれませんが、一応「司馬さん」としておきます。
 紀行文の取材などでお供をした際には、司馬さんは、夜、旅館で、編集氏を相手に、その日のことを振り返りながらメモに何か書き加えたりするのが日課だったそうで、時々「お昼にお目にかかった田中さんは、確か郷土史研究会の会長さんでしたね」などといわれると、編集氏がその日もらった名刺を繰って「いえ、田中格英さんは副会長さんのようです」と補足したりしたのだそうです。で、あるとき、ふと気が付いた編集氏が、「皆様から頂いた名刺で、お名前と肩書きが確認できてありがたいですが、そういえば、司馬先生のお名刺は、お名前だけですね。ま、当然ですよね。先生の場合は、お名前だけで、どなたにもお分かりになりますからね〜」と感心したところ、司馬さんが、「そういうことをいってはいけませんよ。名前だけで誰にも分かるだろう、などというのは、尊大な態度です」とたしなめて、「ほんとは私も何か書くのが礼儀なのですがね。でも、「物書き」とでも書く他ありませんから、それもねえ」、と苦笑したのだそうです。
 鴎外は、墓はいらないとか、ただの石ころでよいといったのではありません。「森林太郎」と彫れといったのでした。それだけで、軍医総監森林太郎閣下の墓だ、文豪鴎外漁史の墓だ、と分かることを、十分自覚していたに違いありません。加えて、名前だけにすることで、後生の評論家諸氏によって、<名声にこだわらないという名声>をえられるということも。
 それだけではありません。
 以前、ある島へ行ったことがあります。戦争が終わったことが1か月も伝わらなかったという伝説があるほどの離島ですが、そんな島の墓地にも、「大日本帝国陸軍上等兵何某之墓」などと彫られた墓が立っていました。跡取りの漁師になる筈だった息子が島から連れ去られたまま帰って来なかった、その万感の思いをこめて、何某の親は「上等兵」という肩書きの墓を立てたのでしょう。戦争では、弾に当たって死んだ兵士より餓死や病死した兵士の方が多かったそうですから、彼もまた、もしかするとジャングルを彷徨ったあげくに餓死したか病死したのかもしれません。日露戦争の際に、森閣下のせいで無数の兵士が脚気死したことは、今ではよく知られています。残された老漁師は、戦病死した息子の墓に肩書きを彫ることで何とか息子を歴史に留めようとし、戦病死に大きな責任のある軍医総監閣下は、肩書きを彫らないことで、「全ては仮の仕事だった」という責任逃れを、評論家諸氏によって認められるのです。
 余の人生を「所詮体制エリート人生」に過ぎぬと「誹る人もあるべけれど」、余はただ、そうである「かのように」生きたに過ぎない。(続く)