映画「サルトルとボーヴォワール」

 DVDを貸してくれた人があって、「サルトルボーヴォワール」という映画をみました。何か言葉を添えて返したいのですが、この映画はどう見ればいいのか、落ち着きが悪く、少々困っているところです。ここを借りて、少し書いてみたいと思います。
 といっても、私はどんなものも素直に見聞きできない、実にけしからぬ性分です。その上、ここ数年の間に、わざわざ電車に乗って見に行ったのは、ペニス少女のダーガーと動くブリューゲル(わざわざ行くほどのものではなかった)の僅か2本だけ。いや、そういえばもう1本、今年になってから、このDVDの持主といっしょに、渋谷の小館で、何だったか忘れたものを見ていますが、とにかくそれほど、私は映画に(も)疎く、この作品についても、監督や俳優を含め、何も知りません。そんな者が書くのですから、万一、以下に多少の物言いが含まれていたとしても、それは全く「いわれのない」ものとご承知ください。実際には、この作品は佳作なのでしょう。
 ○映画のサービス 
 厄介な挑戦的映画の類は別として、普通の映画では、観客は、監督の手のひらに乗って、共犯的に2時間だけ<映画の中で>騙されたいのであって、それに応えるのが、単純にいえば、映画サービスというものでしょう。
 その点、ヒロインの方は、似ていないままに、<映画の中で>結構「ボーヴォワール」していましたね。でも、もう一人の方は、この小柄な男はプリティサルトルまたは長州小サルトルではなくて「あのサルトル」なのだと、こちらで思ってあげねばなりません。観客にサービスさせてどうする、と思うのですが。
 まそれは、こういう伝記的映画の宿命で、<映画の中>だけで騙すというわけにはゆかず、あれこれと「ご当地ミステリ」的なサービスになるのもやむをえません。どうも知性的にはみえないけど、でも眼鏡とパイプだから、これが「あのサルトル」ね。唐突にエビ道楽のCGだけど、これが「あのメスカリン体験」ね。ただノソノソしているだけだけど、この大柄な男が「あのカミユ」なのね。そうそう「戦争とレジスタンス」で「第三の道」よね、エトセトラ。その分、ひとつひとつのエピソードが薄くなって、例えば非ユダヤ証明へのサインなど、取り上げるのなら、かなりの厚みと重みをもったシーンが撮れると思うのですが、これもまた、ああ「例のユダヤ人問題」ね、とあっさり軽く通り過ぎます。
 まその辺は、今いった伝記的映画の宿命と、見る方で寛大にならなければなりませんが、それはそれとして、ではこの映画はどう見てよいのか、私の映画読解力が不足しているために、どうも落ち着きが悪いのです。伝記といってもただの紹介ではないでしょうから、わざわざ作られたこの映画は、何をいいたいのでしょうか。
 というわけで、もちろん以下は、サルトル的にいえば(??怪しい)・・・俳優、の形に光るスクリーン、で表されるプリティサルトル、から観客が呼び出すそれぞれの「あのサルトル」、が投影された<映画の=観客に現れる>「サルトル」・・つまり、あくまで、<映画の中の>「サルトル(もどき)」についてだけの話です。本物(って何かと聞かれると、またややこしいですが)と区別するため、Pサルトルとビーバーと呼びましょう。
 ○小市民と作家
 と、いつものくせで前置きが長くなりましたが、では、映画の中身をみてみましょう。
 冒頭、Pサルトルやビーバーたちは、エリート校のエリート学生ですが、彼らにとっては、「小市民的な生き方」に反抗することが何よりカッコいい。Pサルトルは「小市民になりたくないなら俺と寝ろ」と女たちを口説き、ビーバーも、二言目には「小市民になりたくない」といいます。
 ただし、反抗といっても、彼らは生まれや育ちも今の生活も小市民です。例えばヒッピーの反抗風俗も知っている今の眼から見れば、髪型も服も住居も別荘もピクニックも家具も飲物も煙草も仕草も、しっかり小市民しています。第一、Pサルトルは、自ら「叔父の遺産で金持ち」だといい、その小市民の基本を捨てる気持ちはさらさらありません。いや、もちろん、反抗というなら気狂いピエロのように捨ててみろ、などとは、誰にも全くいえません。ヒッピー風俗を趣味とするのも楽しいでしょうが、生活が小市民できれば、それに越したことはありません。
 それより問題は、生活は小市民ながら、「小市民になるな」というPサルトル、「小市民になりたくない」というビーバーたちは、では何になろうとするのか、ということです。ある意味この映画は、二人が、「小市民などになるものか」と頑張ったという映画ですが、目指すのは職工でもお針子でもなく、作家、著作家、それも「有名」作家です。
 ところで、映画の中での小市民代表といえばビーバーの父親でしょうが、彼は、(野外と病室を除くと)全カット例外なく、本または新聞を手にしています。母親さえも引っ越しの際に、針箱や食器ではなく、本棚の本を箱詰めします。小市民とは(プロレタリア庶民と違って)「本を読む階級」だというわけなのでしょう。昔は身分の高い者が低い者の敬愛を集め実は支配しましたが、今は書く者が読む者である小市民の敬愛を集めます。二人もまた、有名作家としてデビューすると、小市民の貴族として、宮廷サロンさながらの文壇パーティーに集い、(父親が手にしていた本の作者かもしれない)モーリアック伯爵に言葉をかけられ、名前を知ってもらいます。後にビーバーは父親と和解しますが、もともと回路は閉じていたのです。
 と書いてみたのですが、でも、そうなのでしょうか。例えばビーバーの父にいつも本を読ませているのは、監督の意図的演出でしょうし、ビーバーを父と和解させるのは脚本でしょう。でも、それではこの映画は、小市民への反抗の回路は小市民の世界で閉じている、と、そこまで腰を据えて、二人に向き合おうとしているのかどうかということになると、それがどうも分かりません。どうも落ち着きの悪い映画だといったのは、例えばそういうことなのです。(これも続く)