漱石 1911年の頃 6:事件と革命3

 なぜ漱石は、大逆事件ゆかりの田辺や新宮にまわろうとはせず、高野山から伊勢にまわる観光コースを選んだのでしょうか。そう書いたのですが、書いたとたんに、当時の交通事情の話が必要になることに気付きます。これは結構小さくない問題ですが、見通しなく書いているせいで、いまは触れることができません。何しろ、「事件と革命」などという見出しを付けてしまったのに、まだ「革命」が出てこないからです。というわけで、今日は「革命」の話です。
 さて、わが道を遮るものと戦い主義を守って絞首台に立ってみたい、などといっていた漱石ですが、大逆事件が起こってみると、事件には何も言及しません。もちろん、自らの大患と重なりますが、重篤期間を除けば読んだり書いたりできますし、退院後はなおさらです。するとここでまた、そうはいっても、漱石は、事件についてどこまで知ることができたのだろうか、当時の新聞は、事件についてどこまで、どういう論調で書いていたのだろうか、という疑問が起こり、研究者なら新聞を調べたりするのでしょうが、もちろん不精者ゆえそういうことは一切しません(^o^)。
 ただ、漱石は、大逆事件のことは書かないのですが、革命を伝える報道記事については、感想を書いています。この時期、革命といえば、もちろん辛亥革命のことですが。11.11.11. という、1が連続する珍しい日の日記に、こうあります。
 近頃の新聞は、革命の二字で持ちきつてゐる。革命といういふやうな、不祥な言葉として多少遠慮しなければならなかつた言葉で、全紙埋まつていゐるのみならず、日本人は皆革命党に同情してゐる。
 「日本人は皆」といういい方からは、革命を報じる新聞の論調と、それを話題にした知友たちの口調と、そして漱石自身の感想との間に対立や距離感があるようには、少なくとも明確には読みとれません。それなら肝心の大逆事件についてはどうだったのか、ということが知りたいところですが、それはそれとして、上記の記述は、次のように続きます。
 革命の勢が、かう早く方々へ飛火しようとは思はなかった。一ヶ月立つか立たないのに、北京の朝廷は殆ど亡びたも同然になつた様子である。痛快といふよりも寧ろ恐ろしい。
 仏蘭西の革命を対岸で見てゐた英吉利と同じ教訓を、我々は受くる運命になつたのだろうか。

 どうもこれは、社会主義どころか、共和派ではなく王党派、それも共和革命を怖れる王党派の心情ですね。いや、だからダメだというのではありません。けれども、少なくともこのいい方は、(広義の)社会主義にまで踏み込んで幸徳への共感を深めていった啄木の若さとは、もちろん違っています。(続く)