漱石 1911年の頃 10:清朝と南朝1

 元の道といっても、そんなものはもともとないのですが、ともかく、辛亥革命のニュースを前にして、仏蘭西共和革命を対岸に見る英吉利王党派の不安を思う、という話でした。
 今は昔、昭和天皇重態に際しても、国民に謹慎を強要するのはおかしいという声が上がりましたが、明治天皇重患の際に、漱石は日記に書いています。「天子未だ崩ぜず川開を禁ずるの必要なし。細民是が為に困るもの多からん。当局者の没常識驚くべし」。さらに漱石は、能か何かを観にいったとき、来ていた皇族が、全館禁煙なのにお付きの者に火が点いた煙草をもらって吸っているのを見て、一般観客に禁煙を強制しておいて何だと怒り、「死人」じゃあるまいし自分で火も点けられないのかと呆れています。
 けれども、だからといって漱石に、「天皇というのは、考えてみれば「実に突飛なもの」です。神ではないのに「諸事万端人間いっさい天地宇宙」を統べる神のように思われているのです。――手を叩いたって駄目です。いくら手を叩いたって仕方がない、ごまかされるのです」、といった演説を期待しても、もちろん無理です。漱石は、天皇制をなくせといっているわけではありません。
 確かに漱石は、神格化に怒っていますが、人間天皇には敬愛をもち重患に同情し、今後も続くことを望んでいたようです。「皇室は神の集合にあらず。近づき易く親しみ易くして我等の同情に訴へて敬愛の念を得らるべし。夫が一番堅固なる方法也。夫が一番長持のする方法也」。
 漱石天皇制容認を論難する向きもあるようですが、神でもなく永遠でもないと認めた上で、敬愛で維持されることを望むというのですから、戦後の多数派レベルというか、当時とすれば少なくとも「並の上」(^o^)でしょう。もちろん、前に触れた蘆花のように、天皇を人一倍敬愛していると明言しながら、「大逆」の意思があったかもしれない人々を含めてその処刑に断固反対する、という立場があるわけですから、漱石が事件と処刑を、どのように思っていたかは、また別問題ですが。
 いずれにせよ漱石は、当時「並の上(^o^)」程度の容認派として、辛亥革命清朝があっさりと滅びるのを目の当たりにしたとき、ブルボン朝滅亡を対岸に見たイギリス人が、当時の王は知りませんがハノーヴァー朝の「長持ち」を願って感じたであろう不安に、共振したのでしょう。
 ご承知のように、水戸国学にいかれた一部の連中を除けば、維新後、政治家たちは天皇を「玉」扱いし、開化をリードした知識人たちも、もちろん天皇を神だなどとは思ってはいません。それでも、民権派の私擬憲法草案にも、人民主権はあっても完全共和制はなかったようで(知りませんが)、そこら辺りが、漱石も越えてはいない黙契ラインなのでしょう。
 けれども、民権運動を押しつぶし、2度の戦争を経て、次第に天皇の神格化が進行中です。ご承知のように、進行中のこの流れは、遂には皇国史観が機関説も蹴散らして、手が付けられないところまでゆくのですが、この年11年にも、ひとつの問題を起こします。
 次第に声高になってきた皇国派は、前年から歴史書国定教科書にイチャモンをつけようとしていたのですが、幸徳が法廷で「いまの天子は、南朝の天子を暗殺した北朝の天子ではないか」といったと伝えられ、政争もからんで、一挙に南北いずれが正統か、いわゆる南北朝正閏論が問題化します(この辺りの前後関係は怪しいですが)。
 確かに明治天皇は系統的には北朝(すり替えられていなければ)で、だから有名な熊沢天皇のような南朝天皇を名乗る人物も後に現れて天皇に対する訴訟まで起こすのですが(ちなみに、もう一人有名な葦原天皇の方は、天皇に「よう兄弟」と友好的だったようですね(^o^))、問題化した以上は、それまでの歴史書−教科書のような両朝並記は放置できなくなります。幸徳死刑判決の翌日の読売新聞社説、「もし両朝の対立をしも許さば、国家の既に分裂したること、灼然火を賭るよりも明かに、天下の失態之より大なる莫かるべし」。結局、明治天皇の裁断もあって、帝国議会南朝が正統だという決議が出され、以後国定教科書南朝正統で統一されて、忠臣楠公逆賊尊氏が子どもたちに刷り込まれてゆきます。
 と、以上は(怪しい)おさらいですが、ただちょっとだけ、気になることがあります。(続く)