漱石 1911年の頃 20:箕面と和歌浦2

 さて、箕面散策の後漱石は、明石の旅館に移りますが、その衝濤館という旅館の様子については、内田百間が詳しく伝えてくれています。当時はまだ学生で、夏休みで岡山に帰省していた百間は、漱石先生が明石で講演されると聞いて衝濤館を訪ねるのですが、あたりには紋付袴に羽織の人が溢れていて、漱石がいるらしい部屋に近づけません。ようやく姿が見える所にまで行くと、「そこにも、また紋付羽織に袴を穿いた人達がうようよする程ゐました。〜先生は、一人だけ筒袖の浴衣を着て、明石町の紳士達に挨拶してゐられるのです。先生の傍らに控えた人が、そこに新しく入って来た人を紹介して、町会議員の何々さんです、とか、何とか学校長の何の某さんとか云っては、先生の方に向かって、お辞儀をします。その度に先生は、浴衣の両手を畳に下ろして、腰を浮かして、落ち着かない格好で挨拶せられます」。
 いやはや大変な騒ぎですが、それにしても、どうなんでしょうねえ、こういうのは。
 松山中学、五高、一高と教師をしてきた漱石ですが、学生相手の教師という仕事はいやでしようがなかったとか、社員作家として定期的に連載小説を書かねばならないのも大変だが教師よりはよっぽどいいとかいうようなことを、何度も彼はいっています。というとやっぱり、人間相手より原稿用紙相手がいいということだったのかなあなどと普通は思ったりするのですが、だとすれば、次々と大勢の見知らぬ「紳士達に挨拶」するなどというのは、どうだったのでしょうか。
 関西講演旅行は、連載休筆中の朝日への義理もあって出掛けたのでしょうから、挨拶もやむをえなかったのかもしれません。漱石の傍らに控えて挨拶する人を取り仕切っていたのも、朝日の社員だったのでしょうか。けれども、例えば前にも触れた6月の長野の方は、多少の義理があったとしても、断ろうと思えば断れた話であり、だから奥方は病上がりを心配して必死で止めたのでした。それでもどうしても行きたいと言って聞かずに出掛けてみると、はるか手前の小諸から汽車に迎えが乗り込んで来るわ長野に到着すれば駅頭に校長以下お歴々が待ち受けているわ宿舎に着いても旅装を解く間もあらばこそ数多の訪問客や地元記者が押し掛けてくるわ夜は夜で会食や宴会があるわ翌日以降も連日近隣の名所旧跡に案内されるわ予定の講演はもちろんのこと是非わが校の生徒に一言をと依頼されれば予定外の講話までもすることになるわ、などなどというようなことで、数え切れない人と言葉を交わしながらの旅だった筈です。でも、こりごりでもうんざりでもなく元気に帰ります。
 もちろん、作家にとっては旅行は取材になるわけですし、それに大体、案外歓待旅行が嫌ではなかったらしいなどということ自体は、別にどうでもよいことです。ただ、訪れた町で行きずりの人に道を訪ねたり、ふらりと入った居酒屋で地元の人と話したりするといったことと、「うようよする程」の「町の紳士達」に紹介されて挨拶することとは、同じではありません。極端な場合でいえば、原発誘致とか廃棄物処理などなどといった問題で揺れている町なら、訪れた有名人として、どういった「町の紳士達」の挨拶を受け、どういった人たちと宴会をして歓談するのかといったことは、どうでもよいことでもないでしょう。
 それほど大げさなことではないのですが、明石の次に泊った和歌浦は、実は揺れていたのでした。
(前回に続き間隔があいた上に短文ですので、お詫びにオマケの駄菓子をつけておきます。)
   *   *   *
 百鬼園先生こと内田百間は名文家として知られ、私もまたそのことを認めるのに些かも吝かではない。その名文たる所以は文字の組み立てにあらずして、むしろ先生の背筋を通る骨太い何かにあって、故にその名文は、余人の容易に真似できる所ではないのであるが、ところが肝心のその骨が、どうやら時折溶けるらしいのである。
 百間先生は、高等官八等で従五位とかだそうである。それがどれほどのものかは浅学にして全く知らないが、もちろんフロックコートに鎖つき金時計のレベルは軽々超えておられる。主なお仕事は陸軍士官学校の教授であって、学生諸氏はエラい将官になるのであるが、先生にとっては卒業後もなお学生は学生であって、先生の方がずっとエラい。お金を貸す方と借りる方でも、借りる方が先生なのだから、借りる方がもちろんエラい。エラい先生が船に乗れば一等船室が用意され、飛行機に乗ろうといえば飛行機が飛び、汽車に乗ろうとすれば駅長が見送りにホームに来て挨拶し車席には必ずお供がつくという位、何しろ先生はエライ。だから人骨賤しくない骨は容易に傾斜しないのである。
 ところが、そういうエラい人にはありがちなことではあるが、エラい先生は先生の先生よりはエラくないので、先生の先生の前では骨は消えるのである。ちなみに誤解されては困るが幇間は立派な職業であるが、職業でないモドキに骨がないのである。「それなりに」レベルの人にもお似合いでいらっしゃいますとブティックの店員がいうのは職業であるが、店員でない人がいうのはモドキであるようなものである。漱石先生は作家には何よりインデペンデントの骨があるものだといっている。時折骨がなくなるのは時折モドキになるということであろう。
 関係ないことを思い出したが、最近本屋のベストセラー棚に、キリスト教と中国のことはこれで分かる、といった新書が2冊並んでいる。橋爪大三郎先生が東、宮台というこれまた有名な先生方と共に書かれた本で、先日、売上No.1という帯がついていた。但し、東先生、宮台先生といえば、いまを時めく大変な論客先生であるが、これらの本は、丁々発止の対談とか鼎談の本になってはいない。両先生はそれぞれ敢えて学生のような質問をされ、それを橋爪大先生が、なかなか鋭いよい質問ですねそこがポイントですね、などと引き取ってすぐに回答乱麻、これこれしかじかと説明される。すると質問された先生は、なるほど腑に落ちました、眼から鱗が落ちました、などと、やたら落ちるのである。
 昔、ある藩で、我が藩でも藩校を開こうということになり、江戸詰家老を中心に招聘すべき儒者の選考に当たることになった。そこで姻藩から、識見人物ともに名が高い藩儒の伊藤鳳山を紹介してもらって相談したところ、それならばかつて私の門弟であった青山某斎を推挙したいが如何がであろうか。もとより門弟というのは過去のこと、いまは著した本も開いている私塾も評判が高く、立派に一家をなしている者にござる。とにかく一度ご引見を、ということになった。そこで数日後、家老が鳳山に伴われて来た某斎に会ってみると、学才識見は鳳山の保証付きの上、藩校の方針についても卓見をもち、人物もなかなかの人と思われた。特に敬服したのは、別室に移ってからの談話の席でのことである。内容については家老には分かり難かったが、某斎が日頃の疑問を持ちだし、流石に鳳山がたちどころに答えたところ、某斎が、積年の疑問が解けました。眼のうつばりが取れた感が致します、といって頭を下げたことである。その真摯で謙虚な態度に、家老はいたく心を打たれ、是非この人を我が藩にと心に決めた。とはいえ、すぐその場で決定ともゆかず、では追ってよいお返事を、ということになったが、家老としては、これで決まった、肩の荷が下りたという気持ちでいたのである。
 ところが、数日して鳳山が訪れ某斎の返事をもたらしたところによると、誠に光栄なお話を頂き恐縮千万のことながら、この度のお話は何卒辞退させて頂きたいというのである。それはまた何と、と家老は驚き、当藩としては是非にと思っていたこと、とり分け先日鳳山先生のお話に眼のうつばりが取れましたと答えられた真摯で謙虚な態度にいたく感じ入ったのだという話もしたのである。すると鳳山が、いや実はその「うつばり」でござる、と言う。某斎はかつては確かに私の門にいたとはいえ、今はもちろん一家をなして本も著し塾も開いている立派な儒者でござる。しかるに某斎が申すには、先日、師、つまり私のことでござるが、の僅かなお言葉で積年の疑問がたちどころに解け、目のうつばりが取れた感が致しましたが、それ即ち、私が独力では自らの「うつばり」を取り去ることができなかった、ということであって、儒者としてまことに恥ずかしき次第、到底一家をなす資格がござらぬ、といって聞かないというのである。鳳山は、あの折り思わず自分が、かつての講述口調をとってしまったことも悔やまれますと家老にも謝りつつ、某斎には重ねて翻意を促したのだが覆すことができなかったというのであった。
 思うに、某斎が一家をなす資格といったのは、漱石のいうインデペンデントのことでありオリジナルのことであろう。いやしくも学の道にある者は、真実に対する謙虚さと学の初心を忘れず精進することはもとより当然であるが、某斎は、未だ旧師の一言に、眼のうつばりが取れました、眼から鱗が落ちました、などといってテンとして恥じないようなことでは、とうていインデペンデントな儒者とは認められないと自らを戒め、藩儒を受けることを潔しとはしなかったのであろう。もとより、弟たるものは旧師の学恩を忘れず常に旧師に敬意をもって処し自らを謙るべきことは当然であるが、学については、いつか、全て師に教えを請い師の説に従うという構図から脱し、なにがしか師を越えることこそが、自分が、インデペンデントな儒者として一家を構える最も肝要な事であるという矜持が、某斎にはあったのであろうと思われる。
 いやしかし、もちろんこれは、橋爪、宮台、東先生のこととは、全く関係がない話である。断然時代が違うのである。今は矜持の時代ではなく宣伝戦略の時代であって、今は、村上春樹ってただのファッションじゃんあれに出すようなノーベル賞なんて馬鹿じゃんなどと爆笑芸人にまでいわれようと、いやファッションで瞬時に百万という戦略がすごいんじゃんという時代である。こちらは一桁違うとはいえ、大先生が回答乱麻で快刀を振るい、今を時めく鋭い先生でさえ眼の鱗が落ちるという問答によって、いやが上にも読者の興味を惹こうという戦略なのである。それをしもあざといなどというのは全く時代を知らない愚か者のことばであり、大先生の説明に、先生なおもて腑に落ちるいわんや素人おや、なるほどなるほど、と、素直に読んで分かった気にならなければ、失礼ながら時代の落伍者となるのである。(本編に戻って続く)