漱石 1911年の頃 番外3:入学年令

 失礼が過ぎましたので、320円で買いました(^o^)。本文を読まない本を買ったのは初めてですが、早速訂正させて頂きます。吉永みち子さんのことばは、こうでした。「己の心のありようも愛の本質もその残酷さも知っていたのは奥さんの方だったのではないかと思えてならないのだ」。「本を伏せると」「死ぬの生きるのと騒いでいる」「先生を遙かにしのぐ大きさで奥さんの静がすっくと立っている」。
 さて、集英社文庫の『こころ』には、その値段で、吉永さんの「鑑賞」の他に、菊田均という方の「解説」までついています。こちらはまた、対照的に、恋愛感情にも似た師弟関係や親友への罪悪感といった男の関係が中心で、「下宿の娘」は添え物です。私のようないい加減人間は、できれば誰もが気楽に「すっくと立って」いてほしいと思うのですが、まあ普通は奥さんそっちのけで人間関係と「金」を巡って「死ぬの生きるの」と暗い議論を交わす先生と私の方が、ずっと深いテーマに触れているのだということになっているのでしょう。とはいえ、多分それは、どちらをとるかといった問題ではありません。いうならば「近代がもたらした人間存在の根源的な淋しさ」についての深刻な議論(念のためですが、私は決してこのようなテーマを軽視しているのではありません)から排除されることで、奥さんは「すっくと立っている」のでもありましょう。
 ところで、固い話はそれとして、なおも解説をパラパラすると、「年令」に言及されているところに目が行きました。なるほど先生と私の「男の関係」を中心に読むと、確かに、当の二人の年齢差が気にはなります。引用させて頂きます。
 「先生と「私」の年齢差を考える手がかりになるのは、日清戦争である。「(下宿の)主人は何でも日清戦争の時か何かに死んだ」(下十)という言葉が『こころ』には書かれているが、その主人とはもとより軍人である〜。作品の流れからすると、漱石と同じ東京帝大の学生だった先生が、その下宿に入ったのは、日清戦争(明治二十七、八年)の数年後と推定される。当時先生は二十四、五歳になっていたはずである。そして、「私」が大学を出たのが明治四十五年(大正元年)であったのだから、そのとき「私」は二十五、六歳と考えてよい」。
 そこから菊田氏は、先生と「私」との「年齢差は十三、四歳」と推定されているのですが、今回は、ちょっとこの辺を確かめてみたいと思います。研究者でもなし、数年の違いなどどうでもいいことなのですが、まあ「番外」の遊びということでお許しください。そんな詮索に意味があるのか、というごもっともな質問には、漱石さんに答えて頂きましょう。道楽に意味なし。
 引用の冒頭からゆきましょうか。先ず、「日清戦争の数年後」とは何年頃だったでしょうか。
 先生は、小石川の駄菓子屋で素人下宿の話を聞きます。それは、「何でも日清戦争の時か何かに死んだ」軍人の遺族の家で、「一年ばかり前までは、市ヶ谷の士官学校の傍とかに住んでいたのだが、厩などがあって、邸が広過ぎるので、そこを売り払って、ここへ引っ越して来たけれども、無人で淋しくって困るから相当の人があったら世話をしてくれと頼まれていたのだそうです」。
 厩がある家に住み娘も大きいので、陸軍の将校それも佐官クラスでしょう。日清戦争は94年秋から95年春にかけてで、戦闘期間は94の方が長いですが、しかし、戦死者よりもはるかに病死が多かったこともあり、亡くなった年を94年に決めることはできません。
 この一家が住んでいたのは市ヶ谷、陸軍の中枢地ですね。そしてお嬢さんの叔母さん、おそらく母の妹、も軍人に嫁いで市ヶ谷に住んでおり、引っ越した後も行き来し、病気になれば手伝いに行ったりする仲です。住んでいた家は「売り払った」のですから官舎ではなく私邸であって、すぐ出なければならないわけでもありません。むしろ母娘は、それまで3人で暮らした家で、喪と悲しみに浸っていたでしょうし、叔母さん一家も慰めたり何くれとなく世話をしてくれたりしたでしょう。しかしようやく喪も明けて、これではいけないと新しい気持ちになって、転居を考えたのでしょうか。叔母さん一家にも相談し、買い手を見つけて家を売り、土地を探して新しい家を建てたのか古い家を買って多少普請を入れたのか、いずれにしてもそれらのことを経て、引っ越したのですから、1,2年では慌ただしいと思うのですがどうでしょうか。ということで例えば3年。そして、その引っ越しが「1年ばかり前」と聞いて先生は下宿を決めるのですから、お嬢さんの父の死から数えると4年ほど後になります。あくまで仮定計算ですが、94,5年の4年後なら98,9年です。どうせ仮定なのだからどちらかに勝手に決めろといわれれば、「日清戦争の時か何か」「一年ばかり前」というあいまいさの合わせ技で、99年初秋としましょうか。
 さて、それは、先生が新潟から東京へ出てきて3度目の夏に叔父と決別し、再上京して帝大1年生となった秋のことです。
 菊田氏は、その頃先生は、「24,5才になっていたはずである」、といわれるのですから、何か根拠があるのでしょうが、しかし普通に考えれば、「24,5才」で大学に入学というのは、相当の高年齢です(巻末年表や菊田氏の漱石年令への言及からみて「数え」ではありません)。
 といっても、現在のいわゆる「6334」制は戦後のシステムであり、その(ストレートの)大学入学年令「18才」を、そのまま当てはめてよいというわけでは、もちろんありません。例えば67年2月生まれの漱石自身は、79年に満12才で府立一中入学しますが、その後二松學舍に移り、成立学舎へと転じ、さらに84年に17才で入学した予備門予科でも落第したりして、ようやく90年に、23才で大学に入学し、93年、26才で卒業しています。
 漱石が、中学入学以来あちこち転学し、大学進学までに11年かかった背景には、漱石自身が漢学か英文学かで迷っていたというような個人的事情もあるでしょうが、当時は大学に入学するまでのコースがはっきりしていなかったという事情も働いているでしょう。
 ところが、86年の中学校令、94年の高等学校令以後、いわゆる旧制「6533」制が確立してゆきます。ただし、普通、新制「6334」制との対比で戦前の旧制「6533」制といわれるのは、19年の改正で、入学卒業時期が現在と同じになり、中学4年からの進学が可能になってから後の、いうならば「65(4)33」制であって、それ以前の時期には、高校大学が9月入学6月卒業ですし、また尋常高等に分かれていた小学校の修学期間もなお流動的ですので、いわば過渡期の「6533」制でした。この過渡期のストレート・モデルは、数え十九才の年の3月に17,8才で中学を卒業して、その秋に高校に入学、そして20,21才の秋に大学に入学して23,24才の初夏に卒業する、ということになります。
 もちろん、一挙に全国で制度変更ができたかどうか、細かいことまでは素人には分かりかねますので怪しいですが、一応このモデルを当てはめてみますと、例えば、67年生まれの漱石より10才若い77年生まれの人だと、中学入学は90年ですから86年の中学校令に、高校入学が95年秋ですから94年の高等学校令に、ぎりぎり間に合います。
 例えば波多野精一は、その77年7月生まれですが、96年に19才で東京帝大文科大学に入学し、99年に卒業しています。何と、22才寸前ですが、まだ21才で帝大卒業です。この人は特に早い(高師附小・中を(尋小4+中5)で通過した?)例でしょうが、例えば翌78年11月に生まれた寺田寅彦は、中学時代が変則で、高校時代に結婚した妻を大学時代に亡くすなど波乱があっても、99年20才で入学し03年24才で卒業。さらに翌年の79年10月生まれの河上肇は、99年19才で入学し02年に22才で卒業しています。もちろん教育制度史の専門家ではない素人推理ですので怪しいですが、これらの人々が全て例外的に早いのでなければ、先生と同じく98,9年頃に帝大に入学する世代は、一応、過渡期「6533」制モデルに乗せて、ストレートなら17才か18才で高校入学し、20才か21才で大学入学、と考えてもよさそうです。
 では、先生はストレート入学だったでしょうか。(読んで頂くには長すぎますので、ちょっとここで区切ります。)