リサイクルの古本屋で、偶然今度はちくま文庫版『こころ』の、小森陽一氏による解説をパラパラしました。立ち読みですので、もちろん正確では全くありませんが、こちらは菊田氏とは正反対。「君、理論の言葉は灰色で、緑なす生命の樹は黄金色だよ」。性愛を退け言葉に迷い言葉の純粋さを死後に求めた先生やKなんかは放っておいて、「私たちは生命の世界で生きてゆくのよ、ねえあなた」。そう、私は23才、奥さんは27才です! ただし、「私」にそんな「意気地」があるのかどうか。多分彼もまた「意気地なし」だと思うのですが。
いや、小森氏という方にはいろいろあるようで桑原桑原、素人が作品論なんかに手を出すつもりは毛頭ありあません。「番外」から戻ります。といっても何が本編やら分かりませんが、保留もありますし、ここでもう一度漱石に、講演地である和歌山に行ってもらいましょう。
例えばわが子の急死という痛ましい出来事なども、すぐに小説に取り入れる漱石ですが、ご承知のように、11年の和歌山講演旅行も、翌年暮から13年にかけて連載された『行人』の中に、重要な形で取り込まれています。
ところで、漱石の時代は、まさに「現代日本の開化」の象徴のひとつである鉄道網が、全国に張り巡らされていった時期でした。そして漱石の小説は「現代日本の都会の上中流層(の知識人男性)」を描くものですから、鉄道がよく出てきます。『行人』も、最初の章の冒頭から、主人公の二郎が「梅田の停車場(ステーション)を下りる」ところから始まりますが、それというのも、友人は「甲州線」で諏訪に行き木曾から大阪へ、自分は東海道線で京都に寄って4、5日滞在してから大阪へ、と落ち合って、共に伊勢から名古屋へ回ろうという計画があったからです。また、遅れた友人を待つ間厄介になる岡田の家は天下茶屋駅近くで、電車通勤に便利、休みには浜寺や宝塚へも出掛けられます。というように、全て鉄道網あっての話です。そして、梅田の停車場に友人を見送って初章が終わると、次の章は、翌日再び梅田に母と兄夫婦を迎えるところから始まります。(東京人である漱石が大阪駅を「梅田の停車場」と書いているのは、いわゆる現地取材によるのでしょう。(^o^))
さて、一行はしばらく大阪に滞在し、やがて和歌山へ行くことになります。
ちょっと横道ですが、こう鉄道をのりまわし、大勢で長期旅行をするのですから、もちろんかなりの富裕層です。主人公の父は「官省」の役人で兄は大学教員のようですが、かつて遠縁の岡田を書生に置き、「下女達」がいます。時々仕立て物を届けにきていた官省の「属官の娘」が、大阪で会社員となった岡田の妻になっているのですが、主人公は、「下卑た家庭に育った」女でも今は知人の妻なのだから「自分と同階級に属する」女のように応対しようとします。もちろん現在とは事情が違いますが、富裕だけでなく「階級」意識もしっかりしていた上流の人々のお話です。
さて、昔は「東下り」などといっていた「上方」ですが、06〜07年に国有化された鉄道では、帝都東京からの列車が当然「下り」。以来1世紀、関西、近畿の地盤沈下が止まりません。最近、それにストップをかけようとTV芸界から政界へ乗り出した弁護士は、関西再浮上に命がけで頑張るということでしたが、「命がけで頑張るには慰安婦の慰めが必要です」といったとかで人気も沈下。などと、あれこれ沈下が話題になる関西、近畿ですが、その中にあって、さらに「近畿のオマケ」という歌まであるのが和歌山です。
とはいえ、和歌山に原発はありません。311以前の原発政策には「安全第一」の姿勢が欠けていたと、政府や電力会社を批判する人もいますが、とんでもない。送電設備もいらず減衰もない東京や大阪に原発がないのは、もちろん大都市の「安全第一」のためです。そこでご承知のように、大都市から適度に離れていて、大量の冷却水に利用できる海があり、経済的な地盤沈下が進み雇用の少ない「地方」に目を付け、札束を叩きまくって原発を作るのが、電力会社のヤリ口ですが、それならなぜ、和歌山県に原発がないのかと不思議に思われるかもしれません。実際には、これまで何度も県下各地にかけられた原発建設の攻勢を、そのつど地元の漁師や住民の方々が水際ではねのけて来たそうですから、信長の軍勢を退け秀吉にも最後まで抵抗した自治共和国、雑賀惣国の伝統が生きているのでしょうか。もっとも、徳川の世には、和歌山の町は、将軍を出す御三家の城下町です。
で、維新後は御三家の箔が落ちてたちまち「おまけ」になったのかというと、そうではなく、一歩先んじた産業革命で、全国的な繊維製品の一大生産供給基地、「南海の工業地」となったようで、明治中期には、全国の都市人口ランキングで堂々の10位に入っていますから、「大都市」とはいえぬまでもかなり大きい「都市」でした。そんなわけで両都市間には、他の関西私鉄より早く、鉄路が敷かれます。
前に挙げた原武史氏が指摘されているように、「帝都」東京の私鉄は、環状線の寸前で首をたれるように急カーブして、新宿や渋谷といった「官営」鉄道の駅に寄り添い、駅名ももちろん同名「拝借」です。珍しく外からまっすぐ来る井の頭線も、根性はそこまで。これが関西私鉄なら、渋谷駅など無視して隣に「道玄坂」駅の豪華なターミナルビルを建てて圧倒し、あるいはまた、皇居を守るかのような環状線バリアなど物ともせずに跨ぎ越し、六本木でももっと先でも勝手にレールを延ばしていったでしょう。ということなのですが、そのような関西私鉄の代表である小林一三の阪急が、前に触れたように漱石が箕面線を利用した寸前に開業しているのに対して、和歌山に向かう南海は(歴史的変遷をカットして阪急、南海、としますが)、国有化以前に全線開通しています。
もちろん南海も、環状線の内側に、独立した大きな「難波」ターミナルを持ち、近くのJR駅の名前を「難波」に変えさせてしまうといったような点では大いに関西私鉄的ですが、他の私鉄に先んじて開業した南海は、国鉄の線路と接続できる狭軌です。そのため、軍部の圧力で全国の幹線鉄道の国有化が強引に進められた際、すんでの所で国鉄にされそうになり、それは何とか免れますが、以後も国の強い干渉を受けることになります。
それはともかく、独立ターミナル「難波」を起点とする南海線の、国鉄との接続ポイントが、上に触れた天下茶屋駅でした。主人公の二郎は、そこに住む岡田「から天下茶屋の形勢だの、将来の発展だの、電車の便利だのを聞かされ」ます。「便利」だったのは岡田のような庶民だけではありません。天皇や皇族も、天王寺から天下茶屋までの支線を使って、宿所の京都から乗り換えることなく、大浜での博覧会や近畿陸軍大演習に行けました。
ということで南海では、皇族用の車両まで作られますが、もちろんそんな車両はめったに使われることはありません。それより、南海線には、一般の乗客が利用できる珍しい車両が連結されました。それが私鉄では珍しい食堂車で、岡田から「是非中で昼飯をやって御覧なさい」と勧められた「行人」の一行も早速食堂車を利用します。つまり漱石も、11年に講演に向かう途中、食堂車で食事をしたのでしょう。(続く)