三木清:獄死前後2−2

 (承前)「ここからが本番である」などと書きながら、1か月以上中断してしまった。その間に、予期せぬ活断層が動き、熊本の方々が大変な事態に直面している。だが、地震被害者への支援の輪が広がる一方、地震列島で老朽原発をも稼働させてゆく政府への支持率も高いままである。
 ところで、例えば福島の原発爆発は、想定していなかった地震が原因なのか、それとも、あの地震を想定していなかったそのことが原因なのか。
 サラエボ事件が「原因」となって第一次世界大戦が始まったのか、ヨーロッパ帝国主義諸国の対立が、ついにサラエボ事件を「きっかけ」として大戦を引き起こしたのか。もちろんどちらとも記述できる。
 9月30日の新聞に出た、小さい三木清の死亡記事は、取材したニュース記事ではなく、ましてや追悼記事ではない。いわゆる三行広告のそれと同類の葬儀通知であって、東畑から(例えば岩波経由で)新聞社に知らされたのでもあろうか。
 翌1日、ロベール・ギランらが府中刑務所に行き、アメリカ軍将校を装って、強引に内部を調べ、徳田球一らを発見して取材をし、2日に、ギランらの【記事】が出る。
 3日に、法務大臣と内務大臣に対するインタビューがあって、4日に「人権指令」が出されて、5日のトップ記事となる。
 以上の慌ただしい経過について、第一の問題は、三木の死とギランらの行動との間に関連があるのかどうか、ということであり、そしてまた第二の問題は、ギランらの報道と、「人権指令」の間に関連があるのかどうか、ということである。
 両者ともに関連があるとすれば、三木清の死が、「人権指令」の、従ってそれによって起こったさまざまな出来事の、「原因」とはいわないまでも「きっかけ」になった、ということになる。(続く)