三木清:獄死前後2−3 

 このあたりのことについては、自由法曹団の梨木弁護士の回想に詳しい(→「大原社会問題研究所雑誌」証言:日本の社会運動)。すなわち、三木の死を知った梨木氏は、「一計をめぐらして」ギランらに知らせ、隠されていた政治犯の探索を「依頼し」、結果、徳球氏らが「発見」された、というのである。一般に回想には思い違いなどもつきものではあるが、三木の死んだ豊多摩ではなく府中に行ったことなどからみても、この探訪はギランらだけの企画ではなく、梨木氏らの関与があったことは間違いなかろう。
 次いで、第二の問題であるが、梨木氏によれば、三木清の獄死を知ったGHQは「衝撃を受け」、「直ちに,東久邇宮内閣に対して政治犯の実態に関する報告書の提出を命令し,10月2日には高円寺(杉並区)の三木清の自宅にわざわざ係官を派遣して弔意を表し,あわせて事情説明を求め」、そして、「その二日後」に、「占領軍が人権回復の指令を発した」、ということになる。」
 ということで、梨木氏はいう。「ご承知のように治安警察法治安維持法,さらに思想犯保護観察法など明治以来つづく天皇制国家の弾圧法規が撤廃され,そして政治犯釈放の機運を一気に高めたのは,10月4日に占領軍が発した指令,いわゆる人権回復指令でありました。そのきっかけとなったのが,哲学者・三木清が獄死した報道だったと思います。日本現代史の通説ではこのように把握されておりますね。」
 ただし、些事をいうようだが、梨木氏は、三木の死を新聞記事で知ったのではなく、山崎早市という人から聞いたといっている。山崎氏は、当時、同盟通信社に所属し、占領軍に張り付いて取材していた政治記者だったという。
 そうすると、徳球らの居場所については、梨木氏らが9月の下旬にその情報を掴み→山崎経由でギランらにそのことを教えた、という流れになる一方、三木の死については、(氏の回想に誤りがなければ)山崎氏が先に(小さい死亡記事から?)その情報をえて→梨木氏らに伝えた、という、逆の流れになる。
 関連して、あることが浮かび上がる。(続く)