帝国の慰安婦:安堵の共同性16

 私なんぞのいうことじゃありませんが、「天皇の戦争責任」という言葉がありましょう。そういえば昔、天皇その人が戦争責任について記者から質問されて(その頃は今とは違って「記者」がいたんですね。いまは「記者」なんかいないらしく、内閣がひっくり返るかもしれないような事件でも(例えば→ここの最近の記事)誰も書きません。それはともかく)天皇は、記者に、そんなことは研究しておりません、と答えたとか。確かに戦争責任というのはどういうことか、もうひとつはっきりしない面もありますが、しかしそんなのは簡単なことだ、という人もいます。「王は王であることにおいてギロチンに値する」(サンジュスト)、唯一の主権者で国権発動の最終決定者で全軍の総司令官という人物に責任がないなんてのは下手な冗談としかいいようがない、開戦は聖断できず(せず)終戦は聖断した(できた)なんてのは出来の悪い屁理屈でしかない、とかですね。
 でも、私のような者にもいわせて頂けるなら、天皇に「戦争責任」はないのです。そう「手打ち」したのですから。
 第三帝国滅亡後、責任はナチスにあるという「手打ち」を固く守り、ヒットラーを大悪人として足蹴にし<続ける>ことで、ドイツ人は謝罪し<続ける>ことなく暮らせています。
 こちらでも遂に終わって、大組長アメリカ以下の親分連が一堂に会し、毛沢東だか周恩来だかが日本人民は恨まずというのを幸いと、全責任はトージョーにあるという手打ちを行ったのでした。ということで、藩の責を負って家老が腹を切ると決まった以上は、ピストルを撃ちそこねたり禿頭を叩かれたりと恥をさらし、永久の戦争責任者よ大悪人よといわれ<続ける>ことで、他の全ての責任を消し<続けて>みせるのが、原田甲斐の真骨頂でしたでしょう。
 ところが、まさに「子や孫に謝罪を続ける宿命を背負わ」せないために腹を切った(切らせた)「極悪」家老を、靖国神社に合祀して参拝するとは、歴史を知らず「手打ち」を知らぬシロウトの大悪手です。もしも「手打ち」に泥を塗るなら、当然、「では誰が責任を負うのか」というゾンビの問いを再び呼び起こし、良民への<謝罪要求>が熾火のように続いてゆくでしょう。
 ご承知の通り、そのことを誰よりもよく分かっていたのが、玉その人でした。臣民が戦争責任を問われ続けることのないよう、ついでに自身の責任も不問になるわけですが、合祀参拝などという、「手打ち」に背く畏れ多い愚策に乗らず、鎮魂と和解と平和を願って激戦地には行っても件の神社には足を運ばず、「手打ち」からブレない大御心を知らねばなりません。(続く)