帝国の慰安婦:安堵の共同性19

 ようやく例の事件も取り上げられる機会が増えてきたようで(例えば→これも)、どうやら私の書いたことにもかなりの誤りがあったようです。ここでは訂正しませんので、是非それら新報道をごらんください。
 ということで、この事件については、もう私などが口を出すことではありませんので、無責任にも、ここで話が飛びます。話が飛ぶどころか話が違うといわれるかもしれませんが。
 まだここでは、表題にした本を開くことすらしていないのですが、(前にも書いた気がしますが)大まかにいえば、こういうことがあったようです。『帝国の慰安婦』という本が韓国で出版され、日本語訳も出た。日本の知識人が高評価で迎えた。韓国で当の元慰安婦が抗議の告発をし、本は発禁処分を受けた。上野千鶴子氏らが発禁に抗議声明を出した。在日韓国人が、『帝国の慰安婦−忘却のための「和解」』という『帝国の〜』への批判本を書いた。(以下、前者を「帝国」、後者を「忘却」と略称させていただきます。ついでに、発禁への抗議声明を「声明」と)。で、その「声明」ですが。
 韓国では、本の発禁ということが頻繁にあるのでしょうか。だとすれば言論弾圧への抗議が、そのつど韓国国民の間に起こっているのでしょう。「声明」を出した人々が、日頃からそれら抗議にどのように連帯連携していたのかは知りませんし、「帝国」の発禁処分についても、韓国での抗議がどのようにあったのか、「声明」が本国の抗議にどのように連携連帯していたのか、などのことは全く知りません。知りませんが、隣国のことであっても、言論弾圧に抗議することは、言論人として当然の行動だといえるでしょう。
 ただ、言論弾圧、といったことは、なかなか難しいところがあります。戦前は、ページに「××を×××せよ」といった伏せ字があって、検閲の跡が明白だったのですが、戦後占領軍民政局は伏せ字も禁止し、読者からは検閲の跡も見えませんでした。幸いそういった「見えない禁止」もなくなり、現在では、言論は自由を謳歌しています。といいたいのですが、どうでしょうか。どんな内容の本も出せて、どんな内容の番組も放映できるでしょうか。(ちなみに私は「表現の自由」とか「言論の自由」とかいったものを錦旗とする議論には好感をもっていませんが、今はそのことは問題ではありません)。
 例えば、テレビ番組では、どんなことでも取り上げることができ・・・ませんよね。民放で、スポンサーを批判するような内容の番組はご法度だということは、誰もが知っています。「ご法度」は、もとは武家諸法度など、法令での禁止を意味しますが、スポンサーに逆ってはいけないというのは、もちろん法律での禁止ではありません。最近、「東京直下型大地震が危ない!」などちう記事や番組がピタッと止まっていると指摘する人もいますが、東京オリンピックに水をさしてはいけない、というわけで、これももちろん法律外。というように、どんな本も出版できる、どんな番組も放映できる、ということでは全くありません。ありませんが、しかしそれは、法的な、権力的な「弾圧」とは違います。
 そうすると、ここにも、これまで触れてきたことが、通奏低音として響いていることに気づきます。圧倒する力によって強制されることは「支配される」ことであるとして、では、圧倒する力に自発的に従うことは、「支配される」ことではないのでしょうか。「下にい!」とか「そこに直れ!」と言われて土下座することは明示的な封建的支配ですが、農民が見えない場所で腰を折ったとすると、それは「親和」行動であって「被支配」行動ではないのでしょうか。とまあ、こう書けば幼稚なことをいっているだけで、恥ずかしくなりますが、例えば、横暴な関白亭主とつき従うことを婦徳と信じて疑わない妻君や、「男らしい男」を誇る男と「女らしい女」でありたい女の関係性は、妻君が信じていて女が望んでいるからといって、性「支配」でなくなるわけではないと、上野氏ならずともいうでしょう。
 そういえば、占領期検閲の話がでましたので、「星の流れに」という歌のことを付け加えておきましょうか。といっても、もはやご存じない方が多いと思いますので、you tube の動画を(ここ)に貼っておきます。リフレインの「こんな女に誰がした」が元の題名だったものを、GHQからのクレームで、冒頭の「星の流れに」に替えさせられたそうですが、この検閲も、関係者以外の誰にも知られないままでした。
 最初は、ブルースの女王として有名な淡谷のり子に吹き込みを依頼したところ、彼女は、「こんな歌を歌うと夜の女の仲間に見られる。こんなパンパン歌謡は歌いたくない」、と断ったそうです。そう、当時「パンパン」と呼ばれていた、今日のねぐらもなく夜の街に立つ女の歌です。彼女たちは、生きるために、自らガード下にたち、自ら客の袖を引きました。誰に強制されてでもなく。・・・けれども彼女は歌うのです。「こんな女に誰がした」。
 誰に強制されてでもなく自ら男を慰安して命をつなぐ他ないこんな女の境遇に、誰が自分を強制したのか。
 自ら街角に立ち自ら慰安したということを指摘して何だというのでしょうか。そんな女に誰がしたのか。誰が強制したのか。誰かがしたに違いなのです。(続く)