アジアあるいは義侠について22:アジアはひとつ?

 前にも同様なことを書いたような気がするのですが・・・
 中島氏の大著の終盤(p.583-4)を引用してみましょう。〜部分を省略していますが、骨格はこうです。
 
 [中島p.583] ヨーロッパはキリスト教という「精神的統一」を獲得したことによって「一つの世界」となりました。〜
 一方アジアはどうでしょうか。鈴木は次のように言っています。
 
 [鈴木の引用] ヨーロッパは「ヨーロッパ的世界史」を生んだ、然るに東洋はそれ自体において世界をなしてゐたにもかかわらず、「東洋的世界史」を遂に産まなかった。〜
 
 [再び中島氏の本文p.584] たしかにアジアが「アジア」を主体的に意識し始めたのは、概ね近代以降のことです。〜(アジアには)、キリスト教のような実体化された「精神的統一の根底」(は)存在しません。宗教的には仏教、ヒンドゥー教イスラーム儒教神道など、バラバラの状態です。
 しかし、重要なことは鈴木が「東洋はそれ自体において世界をなしてゐた」と言及していることです。彼は実態としてのアジアが形成されたことはないものの、アジアは「一つの世界」だったと言っています。
 では、アジアを「一つの世界」として構成してきたものは何だったのでしょうか。それは多一論です。西田幾多郎が論じた「多と一の絶対矛盾的自己同一性」こそが、「世界としてのアジア」を構成してきました。アジアにとって重要なのは、この観念に回帰することです。〜
 
 私のような頭の固い者には、なかなか分かりにくい文章です。
 <ご近所にはいろんな国があります。以前とてもひどいことをしてご迷惑をおかけしたことがありますので、再びそういうことがないよう、そこは重々反省しつつ、お互いの違いを尊重しながら、ご近所みんな仲良く暮らしていきましょう>、というのが、結局いいたいことなのだろうと拝察します。何度もいいますが、それには全く異論ありません。大変結構なことです。しかし、それだけのことなんですから、「ご近所」というところを、無理に超難しい哲学用語などを使って「一つ」にしなくてもいいのではないかとも思えるのですが。
 中島氏は、鈴木という人が「東洋はそれ自体において世界をなしてゐた」と「言及していること」を、「重要なこと」だといいます。つまり鈴木は、アジアは「一つの世界だった」と言っているのだ、と(「東洋」と「アジア」は仮に同じとしておきますが)。
 「鈴木」というのは、鈴木成高という人で、この人は、有名な座談会「近代の超克」「世界史的立場と日本」の両方に出席している、いわゆる「京都学派四天王」の一人です。「〜ヨーロッパの世界支配といふものを超克するために現在大東亜戦争が戦はれて居ります」、という彼の冒頭での発言に明白なように、これらの座談会は「大東亜戦争」の正当化という姿勢が強く、ために戦後、そこには「悪名高い」という修飾語が付けられることが多いのですが、それを問題にしだすと切りがありませんので、今はおいておきます。
 ただここで、中島氏が、鈴木が「東洋はそれ自体において世界をなしていた」といっていることのは重要だ、というのはどういうことなのでしょうか。前後では、さんざん「バラバラだ」といっているのですから、それなのに鈴木が「世界をなしていた」というのはどういう意味なのか、どういう理由でそういうのか、その説明がほしいところです。でもそれがなく、ただ、「鈴木は重要なことをいっている」というだけなので、困ります。
 と書きましたが、どうせ気楽な雑談ですので、ほんとに困っているわけではありません。もちろんこの人の本など、改めて読む気は全くありませんので、上記引用箇所についてだけでいうのですが、鈴木がここでいっていることは、雑談レベルでは、以下のように勝手に断定しても、僭越ながら多分間違っていないでしょう。
 鈴木は、西洋史学者ですから、「ヨーロッパは「ヨーロッパ的世界史」を生んだ」が東洋は「東洋的世界史」を産まなかった、「世界史もまたヨーロッパの所産」だった、というのには、もちろん自信があるのでしょう。つまり、近代までは、アジア人、東洋人が自ら、「大体わがアジアというものは」などと発言するようなことはありえなかったわけです。
 となると、「東洋はそれ自体において世界をなしていた」というのは、当然、<ヨーロッパ人にとって>、ということに他なりません。以前に書いたように、「河(海峡ですが)向こうの野蛮な連中のいる辺り」は、その後どこまでも茫洋とひろがっていきますが、でも、ひとまとめに「東方」とか「アジア」と呼ばれ続けた、というかそうとしか呼ばれなかったのでした。もちろん、そのように「東方世界」が<ひとまとめにされて>見られていたことを、「東洋はそれ自体において世界をなしていた」とか「アジアは一つの世界だった」と、それはいっても別に構わないでしょう。ただ、おそらくそこには、<西洋人がひとまとめにしていた>ということ以上の意味はないでしょう。
 杜甫李白の「唐詩」の唐は国名ですが、国が10世紀に滅んでも、「唐」は中国を表し続けます。それだけでなく、「から」という訓は唐にも漢にも韓にもあてられ、唐獅子唐紙唐辛子、唐草模様はペルシャかも、「唐ゆき」さんではさらに広がり、唐人行列唐人お吉、毛唐は紅毛碧眼白人・・・と、もと古代の海の彼方の国の名だった「唐」ながら、交流世界が拡がっても、ガイジンは<ひとまとめに>唐人と呼ばれたのでした。ただし誰も「唐は一つ」なんていいませんが。失礼、関係ないですね。でも関係あるかも。