アジアあるいは義侠について23:絶対矛盾

 京都学派といっても、いろいろな人やグループがいて、中には超国家主義者とでも呼びたい人ももちろんいますが、しかしまた、戦争という時局に多少は、あるいは相当力を入れて、抵抗しようと思った人やグループもいたようです。しかし例えば、海軍国際派に働きかけて、スマートに戦局を動かせないかと画策したり、東条首相の依頼に応えて、大東亜会議共同宣言の草案を作ることを通して字句に何かを盛り込めないかと苦慮したが結局苦い結果に終わったり(これは西田ですが)、などといった行動は、いや、それほど大げさなことでなくとも、例えば「黙っている」だけでも、その行動は、戦争への抵抗だったのか協力になったのか。当時の行動を現在の時点から単純に振り分けることはできませんが、しかしとにかく、どんな行動も、時局と無関係ではありえなかったのでした。
 では、哲学するという行動はどうなのでしょうか。「一即多」とか「絶対矛盾的自己同一」とかいったことを書いたり発表したりするという行動は、時局とどう関わるのでしょうか。などというと、深遠な哲学について時局うんぬんとは何事か、とお叱りが来るでしょう。けれども、哲学書を書いたり発表したりする行動と、大東亜共同宣言を書いたり発表したりするといった行動は、もちろん寝たり食べたり散歩したりする行動も同じですが、それぞれ全く関係ない、などということはありません。
 ・・・いや、これはちょっと、ではなく大いにまずいことになりましたね。こんな横道にはいるわけにはゆきません。やめますが、「矛盾的」ということばだけ、ちょっと一言。
 「一即多」とか「絶対矛盾的自己同一」なんて何のことやらさっぱり分からない、というのが大方の評判ですが、実際には、西田はそれほど大変なことをいっているのではありません。というか、数学書ではないのですから、誤読してもよいのです。
 けれども例えば。お近くには「多く」の人がいていくつかの国があり、それぞれいろんな面で違っていますが、互いの違いは違いとして尊重しなから「一つ」の仲間として仲良く共に歩んで行きましょう。・・・というのは、それはもちろん大賛成ですが、でも、どうでしょうか。これ位なら、別に「絶対矛盾」などといわなくてもよいのじゃないでしょうか。いや、そうじゃなく、もちろん別にどういうところで「一と多の矛盾」とか「自己同一性」とか、いってもそれは構いません。和洋中華、それぞれ違う多くの料理が一つの店で食べられますよ。いろんな子供が遊んでいます、みんなちがってみんなよい。品物は「違って」もみんな「同じ」百円均一、「違う」と「同じ」の絶対矛盾とか、使用価値と交換価値の弁証法とか、なんとかかんとか、難しい言い方をする人がいても、それはそれで一向に構いません。
 構いませんが、何の話だったかというと、西田の「絶対矛盾的自己同一」のことでした。「みんなマアるく一つのアジア、ソノとお〜り」というような文脈で西田がこの語を使っているかどうか、それは全く知りません。しかし、少なくとも西田当人は、それより天皇制のことをイメージしていたのではないでしょうか。「皇室は〜主体的一と個物的多の矛盾的自己同一」、などと実際書いているようですから。「核兵器のない世界を目指してアメリカの核の傘に入るために核廃絶には反対だ」、なんていうのは全くもって<絶対矛盾>していますが、大東亜を天皇の傘の下に入れようという八紘一宇も結構絶対矛盾しています。あれ、またまた横道に迷ったようです。何の話でしたっけ。