空気について 2

 もちろん、「空気」という語を使わなくても、世の中を嫌な何かが覆っている、と感じている人も、そう指摘する声も、少なくはない。けれども、その嫌な何かは、「空気」といわれるだけあって、とにかく正体がもうひとつ明確ではない。「右傾化」などという人もいるが、そういうだけでは、ただの表面描写にすぎない。
 例えば、「空気」の一端を担っているネトウヨ的ヘイト言動は、格差社会の下層に落とされた若年貧困層が、自らの憤懣を、外国人やより下層の人々に向けてぶつけたものだ、というようなことがいわれたりもした。しかし、それよりむしろ、真面目な中堅正社員層にネトウヨが多かったりする、という指摘があって、どうもそうらしくもある。

 前に引用したように、田原氏は、「空気」の出現というか成立について、このような道筋をつけていた。すなわち、野党が弱く「一強多弱」という政治状況が →与党内でも政権に何でもイエスという事態をもたらし、そのためチェック機能が働かず →それがメディアに影響を与えて →政権批判をタブーとする「空気」が広がっている、と。
 そうかもしれないし、とにかく、元凶を「一強多弱」に見て、その打破をターゲットにしようという姿勢は、政治ジャーナリストとして誤りではないだろう。
 けれども、例えばその「一強多弱」にしても、それが「空気」を醸成したといえるのかもしれないが、しかし逆に、「空気」が「一強多弱」を生み出した、ともいえる。大体、「空気」なのだから、何か明確な発生源があって、そこから広がっていったのかどうかも怪しい。 
 
 さて、田原氏は、2012年から始まった「一強多弱」に注目したのだったが、中村氏は、前年2011年の東北大震災と原発大事故に注目する。
 
 「この国の「空気」」
 そうタイトルを付けたエッセイで、中村氏は、「いま日本を覆っている不吉な空気」を、二つの心理学用語から推定している(『自由思考』河出書房新社)。

 「公正世界仮設」という心理学用語がある。
 基本的に人は、この世界は安全で公正な世界であって欲しいと望む心理のことになる。何も悪いことをしていないのに不幸になったり、理不尽な目に遭う社会では不安で仕方がない。だからそうではない、と願いたくなる。
 これが行き過ぎると、被害者批判、に結び付くと言われている。この世界は公正で安全と思いたいから、何かの被害者が発生すると、それはあなたにも落ち度があったのでは、という心理。社会制度などのせいではなく、個人の過失に還元してしまう心理と言われている。
 いま日本を覆っている不吉な空気の一つに、これがあるように思う。 ~
 「正常化バイアス」という用語もある。公正世界仮設と似ているが、元々は、災害などで、大丈夫と思いたい心理から、避難が遅れる現象を指す。現在の政権や社会状況に対しても、「公正世界仮設」と「正常化バイアス」が作用しているように思う。
 
 そして中村氏は、「いま日本を覆っている不吉な空気」の理由の一つは、東日本大震災にある、というのである。(続く)