空気に逆らう

 (承前)「空」しく「空」々しい人「気」も空気、「風」潮も「風」評も空気。「気」にせぬままに空気に流され、「気」にして空気に逆らおうとする。
 グレタ・トゥーンベリ氏は地球温暖化を放置する空気に立ち向かい、「私の声ではなく、科学者の声を聞いて下さい!」と叫ぶ。温暖化の危機は、科学的に自明なことであり、必要なのは今すぐの行動だというのである。一方、原発は安全だという空気に激しく反撥した広瀬隆氏はいま、温暖化が進行中であることは自明だという空気に反撥している。
 「空気」に流されずに逆らうことが何より大事だと高橋源一郎氏はいう。確かにその通りである。東日本大震災が起こった時、全国のマスコミは被災者を思いやって放送内容の「自主規制」をするが、あるラジオの深夜番組だけは、「ここで自主規制したら何の意味もない」と、「お笑いやエロチックな話で番組を始めるというスタンスを取り続けた」とかで、高橋氏は、それを高く評価する。
 かつて、重篤天皇を思いやって、自主規制の空気が全国を覆った際、井上陽水氏が「お元気ですか~」というCMが問題視された。陽水氏もスポンサーも、自主規制という空気を破ろうとしたのではないだろうが、もしもそれが、意図的な「思いやりの空気」への反抗だったとすれば、さらに、「お元気ですか~」ではなく「お笑いやエロチックな」CMだったとすれば、高橋氏は大いに評価しただろう。
 私たちの社会に、被害者や障がい者や高齢者など、弱者への「思いやり」(正しくは「思いやり」ではなく「権利を認める」ことだが)が、どの程度広がっているのかいないのか、ということは難しい問題である。初めの方で挙げた例を使えば、ある少女は、憲法で認められた生存権社会権が軽視され無視され自分のような生活保護家庭の子がイジメられるという「空気」こそが問題だ、と抗議する。一方クラスの男子児童は、彼女のような家庭が「病院代もタダ」なのを見過ごしている大人たちの「空気」がおかしいという。
 空気に流されないこと、空気に逆らうこと、今そのことが何より重要だ。全くその通りである。しかし、事実がひとつでないなら、空気もひとつではなく、空気がひとつでないなら、空気への反抗もひとつではない。大震災で被害を受けた弱者への思いやりも「空気」である。一強への忖度(思いやり)も空気である。空気であるなら、空気への造反は有理である。出産年齢を超えた女性でも寝たきりでも、「誰でも彼でもできるだけ長生きさせるような風潮、空気はおかしいだろ」というような本音を、知事や政治家が言い、一応問題にはなったが、今も発言者は大臣をしている。彼もまた「空気」に逆らっているつもりであろう。
 山ゆり園事件の被告は反省しない。最首悟氏は何度も何度も会話を成立させようと努力を重ねておられるようだが、どうなっているのか、まだ聞こえてこない。(続く)