血と地と空気

 「民族の血と地」といえばナチスだが、「血と地」という句を最初に使ったのは誰かは知らない。知らないといえば、ナショナリズムパトリオティズムを、愛国主義/愛郷主義と訳し分けていいのかも知らないし、いわゆる農本/愛郷の関係についてもよく知らない。けれども、例えば特攻機戦艦大和の最期の特攻などを美化する話の定番で、死に向かう者が自らを納得させるのは、「大君の辺にこそ」でも「帝国兵士として」でもなく、家族と故郷の山川を護るためという幻想である。「国」という抽象観念は、代々の「親族、家族」(血)の住む「郷土」(地)によって具体化され納得されてきた。
 とはいえ、思えば「家」からの自立と「故郷」からの脱出こそ近代人の課題であった。今、人々は家族や親族から逃れ、「血を受け継ぎ護る」ことに執着しない。先祖代々の墓は放置され、生んだ子さえネグレクトしたりする。また、生まれ育った郷土への執着も希薄化し、人々は「地を受け継ぎ護る」ことに執着せずに、限界集落シャッター街を放置して都市に集住してゆく。
 ありふれた事を書いてしまったが、もし「血と地」の決定的な希薄化が起こっているとするなら、いま「ナショナリズム」とは、いかなるものであるだろうか。そういうことはどうでもいいのだが、愛郷ぬきのネトウヨ愛国は、足元が危ういといえるかもしれない。そして、だからこそ、自分たちの足元が「沈む」あるいは「滅びに向かう」という不安を、抽象的な「国」を護りそして「国」から護られるという、単純な構図の中で確保しようとするのかもしれない。
 家も故郷も保護力を失い、というより、進んで親や親族が住む郷土から都会に出てゆき、何千万は望外だが何とか人並み生活を確保しようと、ようやく企業に職を得ている。とはいえ、たとえ正規でも、企業に昔のような終身の保証は期待できない。もはや「沈む」世の中で「滅びに向かう」不安をもって頼れるのは、抽象的な「国」でしかない。
 「どんな政策でも、どうせ大した変わりはない。とにかく強い政府の率いる「国」がしっかりしていてくれないと困る。それでも先行き老人国になってダウンしてゆくらしいのだから。そうであればこそよけいに、マスゴミや野党などの政府攻撃など無視して、とにかくしっかり一強を続けてもらわないと困る。生意気な弱国はやっつけ、地方の農家など犠牲にしてでも、われわれが働く都会の企業を大きく強くし、14万円など厄介な弱者は放置してでも、我々のように、雨にも負けず風にも負けず、しっかり働いて税金を払い、政府を支持する優良な国民を、とにかく第一に考えてもらう。一強の国に護ってもらうため、とにかく一強政府をしつこく支持する。そういう者に、私はなりたい」。