我々はなぜ

 一強に憤慨し、一強を許す空気に憤慨し、支持する人々に憤慨する。人々が騙されているとしてマスコミに憤慨しても、騙されたままでいる人々に憤慨しないわけにはゆかない。しかしそれらの人々は、少なくとも相対的には多数者である。
 そうではあっても、実にどうしようもない最悪の政権を支持し、それだけでなく批判的な声を叩くとは、実にどうしようもない連中だ。と、そのように憤慨して叩くと、連中は連中で、権力を叩くとは反日か、と憤慨して叩く。
 叩く(叩き合う)ことは、大事なことである。それはよい。
 それとは別に、ここで問題にしようとしてきたことは(というほどのことでは全くないが)、どうしようもない一強政権を、我々はなぜ支持するのか、ということである。<連中は>ではなく他ならぬ<我々は>、なぜ、実にどうしようもない戦後最悪の政権を、少なくとも相対的には、空気のように支持しているのだろうか。
 これまでの言葉の使いようのように従えば、端的なウヨではなく、ナショナリズムでもないのではないか。