今年も終わり

 内閣改造直後に経産相辞任、法相も辞任。「桜」会の私物化、不正金疑惑、反社招待、マルチ宣伝、金も名簿も証拠隠滅。かんぽ関連の情報漏えい。首相補佐官と女性官僚の公費デート。元副大臣のカジノ企業献金逮捕、などなど・・・「これだけの政権に関わる事案がほんの2カ月余りで起きている。しかし内閣支持率は微減だ。つまり世論調査などあてにする必要はない。この政権は既にとんでもないところに来ている。世論調査の結果どころではないということ気付かなければならない」(「日刊スポーツ」政界地獄耳12.26)。
 あれよあれよという間に全てがスカスカ。富裕層インバウンド頼みとは、「もはや先進国ではない」「沈み行くだけの日本」。それでも、株価と支持率は下がらない。
 伝統も保守もどこ吹く風と「グローバル化」という「国売り」を推進。正統ウヨから「売国」奴といわれる偽ウヨ政権。それでも、支持率は下がらない。
 
 保守ナショナリズムを支えてきたクニ(郷土)・ムラ・イエは消滅の危機に瀕している。(支配と束縛と保護からの自由と解放と自立。もはやそれらには頼れない)。思えば、日本近代150年の夢が実現しつつあるわけだ。
 それで、「自由」の旗を掲げていたリベラルが、あるいは「インター」を歌っていたサヨクが勝利したのか? もちろん否である。「リベラルナショナリズム」の提唱もあれば(施光恒氏)「リベラル排外主義」の批判もある(内藤正典氏)ように、リベラルが「自他の区別」に躓いている。
 「血と地」も「ムライエ」もなく「神話伝統」もない、カントリー(地)もない、ただのステートが、人々に「自他の区別」を保証する最期の危うい砦になっている。
 自他の区別だけしかない、とは、「あの国に勝った負けた」しかない、ということである。

 「政権はとんでもないところに来ている」。政治的に完全アウトな「とんでもない政権」というのではない。政治的に完全アウトな失政でも支持率を下げないという「とんでもない政権」。
 「失政でも支持される」、ということではない。(失政も醜聞も汚職も全てをマスゴミのフェイクとして、アベを「支持」する一部のネトウヨは別として)、下がらない支持率を支える相対的多数者は、「支持率が下がらない」ことに貢献はしても、もはや政権を「支持している」わけではない。

 内実のあるネイションステートは、どういう政策をとるかによって浮きあがりまた沈み込むし、人々の暮らしはそれに応じて浮きまた沈むので、ネーション国民は常に政権を政治的に評価して支持したり支持をやめたりする。
 内実のスカスカな、ただのステートは、とういう政策をとろうと沈むだけであると思われている。どこまで現状維持でゆけるかどうか。「現政権も含めて何も支持しない、支持などしても意味がない」ということが「支持率が低下しない」ことを結果している。

 おそらくこうして、アベは、もはや「政治的に評価されない」あるいは「政治的評価に値しない」という「とんでもない」政権になっている。
 田原氏を驚かせ、政界地獄耳氏に「とんでもない」といわせた「空気」とは、多分これではないだろうか。
 
 などとわけのわからないことを書いているうちに、ことしも残り30分となった。
 「空気のはなし」はもうやめて、それでは、みなさま、またいつか。