「切ない」

 やまゆり園事件の公判で、被告に質問した遺族が、「切ない」と発言している。やりきれなさを、他に何ともいえないのだろう。
 死刑を残す現在日本の刑罰思想は単純ではないが、報復あるいは「応報刑」よりも、更生あるいは「教育刑」が基本となっている。そこで裁判は、犯罪を審議し法に基づいて審判を下す場であると同時に、被告が罪を認め、後悔し反省し、謝罪し、罪を償うために刑を受け入れる場であることが期待される。
 しかし、学生時代には障害者支援のボランティアに参加していたという被告が、施設職員として勤務する体験の中から「現場」で作り上げた<考え>は、他人にとって、社会にとってどうであろうと、本人にとっては強固な実践的信念となっていて、揺るぎがない。
 多くの記者や、とりわけ『創』編集長や最首悟氏らが、接見や手紙で対話を重ねても、被告は動じることがない。
 形の上でいうならば、「獄中非転向」である。
 そういってよいのか。だめだとすれば、「思想」とは何か。切ないことに、私は知らない。