火は苦しいか涼しいか

 今日は珍しく朝、空港に行く用があって、8時のニュースを聞こうと車のラジオをつけたところ、例のシューベルトの曲と共に、「音楽の泉の時間です」というアナウンスが流れた。
 NHKが「音楽」といえばクラシックだった時代に、堀内敬三の解説で始まった超長寿番組である。でも今だから、他のジャンルの曲もやるのかな、と思ったのだが、やはりクラシックだった。今日は、ベートーベンのオラトリオ「橄欖山のキリスト」ということで、簡単な解説が始まった。これから十字架に掛けられるという「キリストの深い苦悩が見事に表されている曲」らしい。
 確かに、鞭打たれ重い十字架を背負って息絶え絶えに歩かされた後に十字架に掛けられて殺されるのだから、これ以上なく苦しい出来事である。
 不信仰の者から信仰者を仰ぎ見れば、あらゆる出来事は神の思し召しであり、殉教は救いの証であると思えば身体的な「苦痛」ではあっても「苦悩」ではなく、歓びとまではいえなくとも平静に受け入れるべき出来事ではないだろうかと思ったりもするのだが、そう簡単ではなさそうだ。福音書によれば、ナザレ人イエスは、「エリ エリ レマ サバクタニ」といったと伝えられていて、「わが神わが神なぜ私を見捨てるのですか」というような意味だという。イエスは「神の子」とされるが三位一体論からすれば「神」である。神が神にそんなことをいうのはよく分からないが、ともかくイエスは「見捨てられる」不安を感じ、「信のほころび」を漏らしたことになっている。
 山梨武田氏が織田氏に滅ぼされた際、火をかけられた恵林寺の快川和尚は、「心頭滅却すれば火もまた涼し」といったといわれている。もちろんいろいろ怪しい伝説らしいが、ともかく火中の「苦痛」は「苦悩」とはなっていない。そこがこの伝説の核心である。
 一方、橄欖山の伝説では、イエスは「苦悩」し、「見捨てられる不安」に戦く。もちろん最終的には不安に打ち勝ち、救いの確信と安らぎが来るのだろうが、曲中のアリアも多分短調であって、少なくとも、「わが神を信じれば苦痛もまた快楽」などという長調ではない。
 どちらの伝説がどうだ、などというのでは全くない。おそらく、宗教のちがい、文化のちがいなのだろう。
 しかし、キリスト者は、イエスが、最期の最期に、「なぜ見捨てるのですか」という不信のことばを漏らしたこと(という伝説)を、どのように処理しているのだろうか。もちろん、それなりにちゃんとした答えがあるに違いないが、キリスト者の友人の誰にも、そんな不謹慎なことは聞けないでいる。