老紳士と酔った男と

 世界的なパニックの中、賢明かつ懸命の発言・行動・政策と、愚かな発言・行動・政策とが交錯している。どうなるのか、もちろん私などには見通せないまま、せいぜいできることは、不急のことはしない、ということ位のことでしかない。はじめて生来の怠惰が公認された形だが、セットになっている不安の大きさゆえに、まるでありがたくはない。

 以前、大きな本屋で、並んで本棚を見ていた一人の老紳士から、話しかけられたことがある。
 私の身近にもいるが、例えば、駅では切符の買い方を聞かれ、店ではどちらが良いか意見を聞かれ、街角では道を聞かれる、というように、やたら見知らぬ人に物を聞かれる人がいる。私はめったなことでそういうことはないのだが、どういうことか、その紳士は、突如私に聞いてきたのである。
 「直木賞の直木さんの名前は、何といいますか」
 「え、三十五だと思いますが」
 「や、どうも」
 何を聞かれたのかよく分からないまま、老紳士はどこかへ行ってしまった。
 もう一度ある。もっと以前のことだが、確か新宿駅西口で地下通路から階段を上がりかけたところ、これは夜のことだったが、突如、酔っているらしい男から声をかけられた。
 「人生の意味ってのは、何なんですかね」
 これは直木三十五どころの話ではない。驚いて、分かりませんといったのか、禄でもないことを二三言いったのか、それは全く覚えていないが、男が白けたように離れていったことは覚えている。
 記憶しているのは、ただそれだけである。
 おそらく、歩き去った紳士は、「やっぱりそうか」などと呟きながら他の書棚に移っただけなのだろうし、酔った男は、「なんだ面白くもない奴だったな」などと呟きながら夜の街に流れていっただけだろう。小説とは違って、実際に出会う出来事など、この程度のことであって、全く何の面白みもない。
 けれども、もしそれらが昨今の出来事だったなら、私は老紳士と並んで書棚を見るのを避けて少し移動しただろうし、酔っているらしい男を避けて、マスクの群れと共に足早に通り抜けただろう。そして、作家の名前も人生の意味も聞かれることなく、したがって後に思い出すこともないだろう。