読まない本のタイトル 3

 さて、前2回は無駄な前置きで、もともとここからが本題である。

 先日、「上野先生、フェミニズムについてゼロから教えてください!」というタイトルの本が出た。著者は、上野千鶴子田房永子の両氏であるが、タイトルからして、両者は対等ではない。
 「マルクス主義は理論ではなく運動だ」とマルクスはいったそうだ。どういう意味だったのかよく知らないが、理論は運動から生まれ運動から「学び」運動によって鍛えらる、というよなことも含まれていたのだろう。ところがマルクス主義が「理論的権威」となり、理論が運動に「学ぶ」のではなく、運動が理論に「学ぶ」=理論家が運動家に「教える」ということになってしまった時、理論は止まり、堕落し、ついには支配の理論にも転化した。
 「上野先生、フェミニズムについて~教えてください!」というタイトルは、出版社の発案かもしれない。田房氏が持ちかけたのかもしれない。それにしても、上野氏は、タイトルを了承した筈である。「教えるものではありません」とも「お互いに学びましょう」ともいわなかったのであろう。あるいは、そういったのだが、何といわれようと売れて読んでもらうことが大事だからという、「バカ」とか「サル化」などと同じような戦略で、「ゼロから教える」ということになったのかもしれない。事情は分からないが、しかし、いずれにしても、上野先生は、こんな上から目線で自分の名前を入れたタイトルの本を出してわけである。
 ただし、上から目線が悪い、といいたいのではない。名前の入ったタイトルといえば、以前、遥洋子氏の「東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ」という本が評判になったことがある。上野先生は、ケンカが強いということになっているらしい。「東大で」と入れたのは、「山口組で」誰々にケンカを学ぶ、というような権威づけだろうが、いずれにしても頼もしいことである。弟子入りした遥氏が、関西に帰って、実際にケンカが強くなったのかどうか知らないが、少しは相手をビビらせる自信がついたであろう。
 この国に限ったことではもちろんないが、特にこの国の性差別が酷いこと、一向に改善に向かわないことについては、国際的にも繰り返し指摘されている通りである。差別や抑圧や支配があれば、被差別、被抑圧、非支配者の側に、抵抗から革命まで、ケンカ腰で反抗する闘士が生まれるのは当然のことである。戦略的あるいは戦術的なものも含めてケンカを挑む人々のケンカ腰や高飛車に顔をしかめて、控えめや穏便な物言いを期待することは、それ自体が抑圧的視線である。上から目線であろうと高飛車であろうとビビらせるのに遠慮することはない。例えば、「安部首相、フェミニズムについてゼロから教えてやろう!」といったタイトルを期待したいものである。
 ただ、今回のタイトルはそうではない。「上野先生、教えてください」といったのは田房永子氏であり、彼女に対して、上野氏が「教えましょう」といった、という構図になっている。
 繰り返しになるが、「理論が権威となるとき運動の退廃がはじまる」、とクロイナーはいった。
 で、「身の上相談」の話をしたいのだが、それは次回に。