差別する、ゆえに吾あり

 (承前)10日ほど前に、末尾に(続)と入れたままになっていました。いつものことで、(続)がないままでもいいのですが、思い出したので、少しだけ。
 上野先生が「マッサージ業と同じ」といったからかどうか知りませんが、 最近は「性の商品化」といったことばで問題視するのは、「ゼロから勉強」しないといけない初心者ということのようです。どうも怠慢というか、逃げているだけのように思うのは私の偏見でしょうが、そこに働いたのも、「風俗を差別するのか」という力学だったような気がします。で、マッサージ業だと躱してしまった。(もちろん差別しないという点では間違ってはいません。ただそうなると、身内や友人などが中退の危機を訴えたときに、「時給の高いマッサージ業に就けばいいだけのことじゃないの」、とアドバイスすることになるのでしょうか。一部のフェミニストは、リベラリズムパターナリズムかと悩んでおられるようですが)。
 ただし、(続)としたのは、そのことではありません。
 「大学中退者を救え」といえば、「中退者を差別するのか」といわれます。そこで、普通は、「いやいや、ダルビッシュ氏のように「自由意思」の場合はもちろん問題ありませんが、「意志に反して」中退する場合が問題なのです」と言いわけすることになります。同様に、「自由意思による就業者を差別などしませんが、問題は人身売買や強制です」、とか。
 それはまあその通りでいいのでしょうが、前にも書きましたが、「自由意思」というところからは、「合意」という妖怪が現れるおそれがあります。ゾンビのように繰り返し現れる、「合意だった」「強要ではなかった」という言い逃れはご承知の通り。「困窮で自ら卒業を諦めた」とか、「倒産した家のために進んで中退して就業した」とかも、「自由意思」の「合意」だといえば合意です。あるいはまた、「自由意志」での就業も就業拒否も、つまり他人の「自由意志」がどちらであろうと、それを「偏見だ」ということもできますし、「心からの差別の自由」という問題もあります。
 まあ、その辺は、実際場面では何とか寄り添いながら対応もできるのでしょうけれど。しかし、問題は、さらに厄介かもしれません。
 例えば、被爆や感染から逃れたいと、誰しも切実に思います。この場合、自由意思の余地はありません。それでも、逃れたいという意思は、逃れられない(なかった)人への差別を含んでしまうのか、どうなんでしょうか。差別かどうかを決めるのは「される側」だとすれば、もちろんそれはありうるわけです。
 コロナの初期の頃、陽性と判定されたか検査待ちだったかの男が、待機要請をきかないだけでなく、「俺はコロナだ、感染させてやる」と、飲食店で騒いで、逮捕されたことがありました。もちろん、けしからぬ振る舞いですが、感染というスティグマを負った者は、明らかに避けられ差別されます。そこで、最も端的な差別解消策として、全員を感染させるという行動に出た。そう考えると、一種の原理主義的行動とでもいうべきものだったのかもしれません。
 これ以上、この話を続けると、大変なことになrりそうですのでやめましょう。