育てられる

 「もしかすると私は、ボーボワール第二の性』のタイトルを誤解していたかもしれなくて、でも私だけなのかどうか、ちょっとした私的アンケートをとっています。どういう意味と思っていますか」。そういうメールがあり、「そういわれると不安になりますが、男が第一で、女が「第二の性」、では」、と答えた。
 何でも、質問者も同じように思っていたところ、西澤直子氏の「福沢諭吉と女性の社会進出」というサイトを読んで、「あれ?、もしかして私は」と思ったとのこと。見てみると、たしかに次のような記述がある。「(福沢は)フランスの文学者ボーヴォワールに先駆けて「第二の性」(生物学的な性とは異なる、社会的に形づくられる性)を説いています。」
 面白いのはアンケートの方で、もちろん極私的範囲に過ぎないが、西澤氏と同じように「第二は社会的性(ジェンダー)」と思っている人も結構いるようだ。他にも、第一の性はメジャーなヘテロで「第二の性LGBT」とかも考えられるし、「女が第二の性だなんて、ボーボワールってひどーい」という声もあったとか。
 タイトルそのものは、男に従属的な「第二の性」を割り当てられている「女」を指すのであって、生物的な性(セックス)を第一として、「社会的に形付けられる」(女あるいは男という)性(ジェンダー)を「第二の性」と名指したものではないだろう。しかし、その本でボーボワールは、女は女として「社会的に形づくられる」といったのであるから、西澤氏も、同じアンケートの答えも、「ひどーい」という感想も、タイトルへの誤解はあっても、内容の誤解ではなく、むしろ内容を受け止めてのことだから、どうという問題ではない。むしろ、僅かではあるとしても時代が進んだが故の「正しい誤解」ともいえるだろう。

 ちなみに、関連して別の人から資料をもらったのだが、日仏女性資料センター研究グループによる訳と対比してみると、旧生島遼一氏の訳と構成は確かに「ひどーい」といわれても仕方がないようだ。
 ただ、原著が出てから間もない時期にとにかく出版したことで、時代の「とき」を背負ったということはあるだろう。例えば第二巻第一章の「女はこうして作られる」という旧訳は、新訳で「女はどう育てられるか」になっている。子ども時代から始まる内容からして、原語の「formation」は「育成」あるいは西澤氏的に「形成」とはいえても「作成」ではないだろうし、だいたい日本語では、天は人を作っても人は人をあまり作らない。「顔を作る、肩を作る」ことはあるが、虎の穴はレスラーを、世間は女を(または、女に、女として)、普通は「作る」よりも「育てる」。「伯爵夫人は彼を女の子として育てた」「バチャ・ポシュとは、男として育てられた女子である」、などとといった文を、「作った、作られた」にはできないだろう。
 ・・・であるのだが、それでも、私を含めてもよいが、ボーボワールは「女はこうして作られる」といったのであったり、「You'd be so nice to come home to」は「帰ってくれればうれしいわ」であったりする。全くの誤訳だ、と何度もくり返し指摘されても、ヘレン・メリルを、夫や恋人が戦地から帰るのを待つ女として聴いた人々にとっては、むしろ不当な指摘のようにさえ聞こえてしまったりする。
 伊藤詩織氏の告発を、男たちが執拗に中傷する中に、女性漫画家も含まれる。「作られる」のなら壊せるが、「育てられる」と、「社会的なものが自然的なもの」として生きられる、ということなのだろう。女も男も、そのように育てられるのだ。