敗走記(続)

 結局しかし、俯瞰すれば、世の中が貧しくなってきた、ということなのでしょう。
 テレビはほとんど見ていませんが、多分これからしばらくは、(任命拒否を行革推進にすり替えるという官僚の戦術に乗った)一部「テレビ識者」らの誘導で、政府よりも学術会議の方が、バッシングの的になってゆく予感もあります。
 政府と国がイコールになっている昨今ですので、
 A 「国(政府)に楯突くのはけしからん」
 B 「国(政府)に楯突くのはけしからん」というのはけしからん
と並べると、Aの方が単純であり、単純な方が、視聴者に分かりやすく乗りやすい。

 もともと学者スカラーは(学校スクールも同じですが)、ギリシア語のスコレーから来ています。意味は「ヒマ」で、およそ学問なんてものは、ヒマな遊びだったわけですね。もちろん、ヒマのある身分の人々の、です。
 ところが、時代が下ると、(専門家でないので、以下は怪しいですが)「知」が権力に役立つ時代が来ます。初期信仰が教義をもつ広域宗教に進むと神学が宗教権を支え、直接暴力が金と法による広域支配に進むと世俗の諸学が王権を支えます。西欧中世の大学は地域権力からの自由と自治を確保しますが、それを保証するのは法王なり王なりの勅許状であって、王は一定の「自由」を保証することで「学」を囲い込みます。
 さらに進んで、「知は力」つまり「学の知」が「国の力」という時代が来ます。ロンドンにできた王立学会ロイヤルソサエティには、王の勅許を表す「ロイヤル」という名がついていても、王は金を出さなかったようですが、後発国は、金や地位を提供して「学」を育て「アカデミー」に囲い込むことに力を入れます。産業機械の製造も強力軍艦の建造も支配秩序の整備も侵略圧政の正当化も、「学」なくしてはありえません。
 こうして、「国」は、自由と金を「学」に投下してゆきます。大学を作り研究施設を作り、潤沢な「資金」投下と「自由」な研究保証が、「学」を活性化し、結局「国の力」を支えるのだということを知っているからです。
 しかし、これができるためには、もちろん国が豊かでなければなりません。(また明日)