強いなら誰でも

 手の届かないところで一旦決まると、たちまち70%を越える支持率。前にも増して独裁王でも別に構わないようで、なお50%を越えているらしい。
 例えば、学術会議がどうなのかはいわないが、任命拒否については、いっていることが無茶苦茶である。しかし、無茶でも嘘でも違反でも何でも、支持率が下がらなければ問題ない。独裁王は、たかをくくって解散時期を探っている。
 誰でも何をしても、支持するというより反対しない。「見たいものしか見ない」のだ、と宮台真司氏はいっているが、確かにそうなのだろう。格段と多くの情報を格段と簡単に見ることができる。全てはもちろん見られないから、見たくないものは見ずに見たいものだけを見る。確かにそれは、SNS時代の現状だろう。
 けれども、よくいわれるように、私たちが「買いたいものを買う」というのは虚構であって、実際には「売りたいものを買いたく思わされている」ように、「見たいものを見る」のもまた、「見たく思わされている」のであろう。例えば、「おまえの、われわれの、見たいニュースはこれだ」と示されたニュースを、私も「見たい」。
 しかしさらに思うなら、昔から人は見たいものを見、あるいは見たく思わされてきたのではなかったか。同じ見たいものを見ることで、人は「仲間」と縁を結ぶ。ということで、山向うの火事は見ずに、わが家わが村を人は見てきた。
 しかし、と島田裕巳氏はいう。人が家と村から出てゆく時代になると、学校や軍隊が、そして会社が、また宗教教団が、あらたな村となっていったが、それら全てが、今、解体消滅しつつある。無縁社会の到来だ、と。
 家族も職場も郷土も、その他あらゆる絆が溶けほどけ、あらゆる縁が消えてゆく。そして人々は、「国」という残る縁にすがろうとしているのだろう。強い独裁王が君臨する強い国。強ければ誰でもいいのだ。