面白きこともなき正月に面白く

 例年の気分がないまま迎えたコロナ2年も、何だか忙しくしているうちに、一月が終わって早や春が立ってしまいました。昨年末から何も書いていなかったからかどうか、ブログの元締めから、「昨年同時期にはこんなことを書いていますよ。今年はどうですか。」といったメールが来ました。
 国外も国内も、あきれるばかりで、もはや何も書く気がしませんが、とはいえ、一月以上も放置したのは気が引けますし、今年になってから読んだ本でも、少し思い出してお茶を濁すことにしましょうか。

 乱読ということばには「読み」散らすといったイメージもありますが、私の場合は「読まず」散らしで、読みかけの本あちこちに散らばり、気が向けば適当に手にとって続きを少しだけ読んだりするのですが、大抵の本は途中で面白くなくなり、やめてしまいます。
 ところが、毎年年賀状の片隅に、前年読んだベスト5ほどを書いて来てくれる人がいるのですが、今年、ローラン・ビネ『言語の七番目の機能』という本が挙げられていたので、読んでみたところ、これが面白く、この本は最後まで読み終えることになりました。
 ただし、ロラン・バルトが交通事故で死んだところから始まるこのお話は、確かに大変面白かったのですが、「面白い」といってよいのかどうか。例えばですが、
 「マッチ擦る韃靼海峡冬景色」と誰かが歌っている声を聞いて、ヨシモトが「う」と言葉にならない声を発して、「海はこりごりだ」と呟くと、ニシベが「俺なら帰ってこないがね」と、遠い目をした。
 例えば、そんな文を読んだフランス人が「面白い」というようなもので、きっと、「どこが?」、といわれるでしょうが。

 とにかく、バルトが80年に死んだその時代に、ヨーロッパで名を売った、フーコーデリダクリステヴァソレルスエーコなどなど、また新大陸のサール、チョムスキーなどなど、とにかく同時代に著名な哲学者や文芸評論家、記号論言語学の大家などの物書きたちが、これでもかという位次々と出てきて、さらに思想家や学者連中だけではなく、モニカ・ヴィッティを連れたアントニオーニや、テニスのボルグや、それからもちろんジスカール・デスタンやミッテランなど政治家たちがいないと「事件」が始まりませんし、すると早速暗殺者やスパイが動き出し、誰かが刺され秘密文書が盗まれて一味へと手渡され、秘密結社が会合を開いて論題バトルを繰り広げ、言語や記号を飯の種にしている連中が学会を開いて論争をはじめると、どこかから若い男女や学生たちが引き寄せられてきて騒ぎとなって、さらにうさんくさいロシア人やセルビア人や二人連れの日本人や、過激な左翼も右翼もただのジゴロも、もちろん刑事や警官も、とにかくいろんな人々が、入れ代わり立ち代わり次々と出てきては、喋ったり飲んだり講義を始めたり車や船で追っかけたり、怪しい薬で舞い上がったりやたら性行為を始めたり罵倒しあったり指を切断したり撃ったり毒殺したり、いろんなことが起こるのですが・・・で、結局、バルトの手にあったヤコブソンの言語機能に関する原稿か何かを巡って繰り広げられる手に負えない騒ぎが、あちこち経巡ったあげくに、どうなるかというと、どうもならずに、無茶苦茶なまま終わります。

 サールのセクハラ事件はずっと先の事ながら、バルトの事故死やアルチュセールの妻殺しなどはその年起こった事実ですが、事実であってもなくても、これは小説だから問題はないようで、途中で誰かが、今のフランスではろくな思想も小説も書かれずに言説についての言説ばかりだといった発言をしますが、そんな言説についての言説について書いているのですから、言説についての言説についての言説でしょうが、その上、小説だから何でもできると宣言されるだけでなく、彼はセーヌ川の左岸を歩いていたのだがいや別にセーヌ川でなくても読者が勝手に想像してくれて構わないのであってとにかくそこを彼は歩いていた、などということになると、もやは言説についての言説についての言説の、さらにそれについての言説になったりします。

 長くなったのでやめますが、確かに脱構築もずらしも逃走もその他諸々も、言説についての言説の世界だけで終始して、例えば言語内的か言語媒介的かとかいったどうでもよい議論などを身内で罵倒し合うだけという世界に対して、あちこちに込められた批判的視線も、あたっていてもいなくても見もの、いや読み物ですが、この訳のわからない本を日本語にするのにおそらく大変ご苦労されたであろう訳者が直接著者に尋ねたところ、「風刺?いや嘲笑ですよ」と即答したとか。とにかく痛快な面白い「小説」でした。といっても、冒頭に書いたように、十分の一か百分の一しか分かっていないのですが。
 気がつけば、一冊だけで終わってしまったようですね。読み返さずにこの辺で。