シーンとストーリー6

  ワクチンの確保もならずコロナ収束の目処が立たないまま、それでも政府もIOCも強引に五輪を開きそうです。目標なく始まったので当然ながら収束しないこの話も、とにかく強引に強制終了することにしましょう。
 といいながら、早速また回り道ですが。

 島尾ミホを、聖なる狂女という「書かれた」客体に収めるのではなく、「見ること、書くこと」に憑かれた主体として捉え直し、「愛された妻でありたい自分と、傷を傷として描く作家でありたい自分、「書かれる女」と「書く女」、その間で引き裂かれた姿」を、広い重層的な視野と深い共感をもって出来る限りの調査を重ねて描き切った梯氏の大著は、大変読み応えがありました。
 しかしここは、この重い本について、それ以上のことを書く場所ではありません。それどころか、大変軽い取り上げ方をして誠にもって恐縮なのですが。

 島尾敏夫を高く評価した例えば吉本などからは、恥辱も罪も狂態も裏切りもその他書くべからざることを余す所なく書くことで、島尾は、世間的な一切の制約から「自由」な「書くこと」の極地に立ったと称賛されます。もっとも、世間の外もまた世間であるのが世の常であって、例えば文壇的な評価を得たいという野心は強く持っていたでしょう。もちろんだから賞賛に値しないということでは全くありません。ただ、例えばしかるべき文学賞を受賞して文壇に地歩を築きたいとしう野心や功名心を、ベン・ジョンソンがオリンピックの金メダルを獲りたいという野心とは別のものだと、もしいうなら、それは文学者の高慢というべきでしょう。世の中には、けん玉に憑かれた者もいれば小説に憑かれた者もいるわけです。(続く)