カツアゲ問題

 國分功一郎『中動態の世界』という本が面白いという人がいたので読んでみました。
 「意志と責任の考古学」という副題が付いていますが、考古学といってもいわゆる知の考古学というか、人文学系の諸分野を縦断して、颯爽と進められる論には間然する所がありません。

 英語の動詞型にはヴォイスというものがあって、能動態と受動態が区別されます。いい換えると動詞を用いて表される事態を、能動/受動という枠組みで捉えるわけです。
 日本語では、能動受動は、「する/される」と、動詞に「れる、られる」を付けることで表されることになっていますが、ただ日本語には、「私は彼に、座らせてくれようとしてもらえた」といった「れる、られる」抜きのややこしい表現や、「雨に降られた」といった独特の表現もあって、後者は「迷惑の受動態」などといわれます。おそらく英語に引きずられて「れる、られる」付きの動詞型を「受動態」といってしまい、そこから「迷惑の受動態」というようなものを作らねばならなくなるのでしょう。現在形/過去形を「する/した」と翻訳するのと同じで、一部の「国文法」の先生からは、「た」は過去ではなく完了であって日本語には「過去形」はないのだ、などといわれそうです。
 まあ、そんなことはいい加減な横道ですが、英語では「能動/受動」という動詞型を使って表すことがらも、日本語はじめ言語文化が異なれば、同じことがらを捉える枠組みも、対応する語型も当然違います。

 国分氏は、日本語の他にはせいぜい初級英語位しか知らないわれわれにはまるで無縁な言語や古代の諸言語までを次々と取り上げ、そこに見られる、「能動態」でも「受動態」でもない「中動態」という動詞型とその表現世界を紹介してゆきます。そして、アリストテレス以下たくさんの哲学言語学以下人文学者を援用しつつ、世の中には「する/される」の対立では説明できない事態があると「能動/受動という捉え方」を崩しつつ、「する」と「される」の境目が問われている今こそ、「中動態」を問題にする意義があるのだと結論づけます。

 「する/される(させられる)」問題、つまり人は「するのか/させられるのか」という問題は、人の自由意志を問わずにはいらない西欧思想の王道問題であり、また歴史社会における人の責任を問うという現代社会の大問題でもあって、アイヒマン天皇だけでなく、我々自身も含めて誰もがこの問題から逃れられません。そんな大問題に、簡単に口出しすることはできませんが、大著の途中に、「カツアゲの問題」というのが出ていて、これはちょっと面白い話題でした。(続く)