みんなカツアゲ

 (承前)面白い話題、と書きましたが、それは、学術的な装いの本の真ん中に、「カツアゲの問題」という下世話?な見出しが面白かったという意味であって、予想外の問題が予想外の仕方で取り上げられている、というようなことではありません。

 例えばスリ(掏摸)にやられた場合には、「スる」のはあちらで、こちらは何かを「する」のではなく、「金を取られる」、「られる」被害者です。ところがカツアゲにやられた場合には、「金を取られる」のは同じでも、こちらが「金を渡す」ということを「する」わけです。ということで、カツアゲの問題には、「人が何ごとかをなすとはどういうことか、人が何事かをさせられるとはどういうことか、という原理的な問題」が、典型的な形で露呈している、と国分氏はいいます。もちろん氏は、カツアゲ問題をも、アリストテレス、カント、フーコー、それにハンナ・アレントといった大文脈の中にそれを置いて、重々しく論じるのですが、ここではそんな難しい話に入ることはできません。

 カツアゲは金を「取-られる」のか金を「提供-する」のか、「られる」のか「する」のか、といったようなことに、庶民は全く悩みませんが、学者世界では「られる、する」の境が問題なのでしょう。しかし、「される」のか「する」のか、という問題は、「する」とはどういうことか、何をもって「する」というのか、という問題に帰着します。そして、(自由に、主体的に、自ら、自発的に)「する」とは一体どういうことをいうのか、という問題は、氏もいうように、結局定義の問題になってしまいます。

 一方、カツアゲをする方はつまり「権力」ですが、昔のいい方では、人を縛り自由を奪って、したいことを「させない」のが権力であって、現に、カツアゲでは、相手が「逃げたい、逃げよう」とするのを力で阻みます。ところが、フーコーは、権力は「させない」のではなく「させる」のだといったわけで、実際、力を行使して、金を「出す、渡す」ということを「させる」のがカツアゲです。「させない」権力観から「させる」権力観へ。

 しかし、そうだとすると、われわれは、「どこでもカツアゲ」スプレーをかけられているようなもので、カツアゲが「脅さーれ」て金を「渡ーす」つまり「されてーする」のと同じように、われわれは、日々何かに「するように-させられ」て「何かを-している」ことに気づきます。(眠くなったので、あとはまた:続く)