させられなくてする

 やたら学者とか文献とかが出てくるような本はたていてい面白くありませんが、趣味の世界というのはそういうものですから仕方ありません。例えば、普通にしていれば時間とは何か分かっているのに考えようとすると分からなくなる、というようなことを、アウグスティヌスだったか他の人だったかが言ったそうですが、なら考えなければいいじゃないかと思うのが健康的な庶民で、でもそういう趣味の世界があって、例えば、時間は連続しているのか、しているとすればどんな種類の連続かとか、時間のはじまりはビッグバンからか、もしかして5分前からかも、などといった話を楽しんでいるわけです。

 で、自由というのも、その手の古典的な話題ですが、西洋では、結構真剣に議論しなければならない事情があって、あちらでは、世の中はすべて神様が動かしているのに、何事にせよ責任は人間がとらねばならないという、やっかいな問題がありますので、自由意志なるものが、神学とか哲学とかの学者世界で問題であり続けてきたわけです。
 しかしわれわれ庶民の間では、例えば町内旅行会のチラシに、「参加自由」とか「自由時間」とか「自由席」とか書いてあったとして、それらの意味は「必要十分」に分かります。それも、「お持ち帰り自由っていったって、あんた、そんなにもらったらまずいでしょう」、などと複雑なわけです。

 そこで、「する/される」と「させる/させられる」ですが、自由な行動(自由意志による行動)とは、「させられてするのではなくする」行動だといってよいように見えます。仮に、何かを「させる」ものを(神様ではなく)権力といっておけば、権力に「させられるのではなく自ら進んでする」行動で、そんな行動があるのかどうか、そんな自由意志なるものがあるのかどうか、なのですが。
 いずれにしても、しかし、カツアゲのような明白単純な関係行動などというものは基本的に子ども世界の話であって、大人の世界には実に悪い奴がいて、「彼が勝手に「した」だけだ、私は何も「していない」」、などといい、可哀そうな彼は、勝手に忖度を「して」勝手に書類の破棄を「した」ということに「されて」しまいます。もちろん、「忖度させられた」「破棄させられた」のであって、つまり「せざるをえないようにさせられた」のだ、と同情する人も少なくないのですが、悪い奴らは巧妙で厚顔ですから、破棄「しろ」忖度「しろ」などと言っていない、つまり「させた」のではないから「させられた」などというのはイチャモンだ、と開き直り、彼を罰したりまでするのです。(まだ続く)