自由ではなく自由に決める

 義理人情のしがらみ話など掃いて捨てるほどありますので、何でもいいのですが、忘れていた岩明均ヒストリエ』の10,11巻を買って今手元にありますので、さしあたりそれにしましょう。

 主人公の書記官エウメネスは、名門将軍の姪エウリュディケと思いあう仲なのですが、突如、彼女がフィリッポス王の第七王妃になることを知らされ、彼女に会いにゆきます。

 「第七王妃になるんだって」
 「そう。わりと急な話だったんだけどね」

 「あなたには・・・申し訳ないと思ってるわ。ごめんなさい」
 「きみの気持ちはどうなんだよ! きみの・・・!」
 「女の気持ちは関係ない・・・わが一族の誉れよ。私自身光栄の至り」

 そして彼女は、こういいます。
 「たとえ奴隷の身分でなくとも、誰もが憧れている"自由"は、結局は柵で囲われた「庭」なんだと思う。広い狭いの違いはあっても、地平線まで続く"自由"なんてありえない」

 エウメネスは返します。
 「柵か・・・ ~ 本当に囲いがあるのか見に行ってみようよ。ひょっとしたら地平線の先まで、柵なんて無いかもしれない」
 「行こう!王妃なんかやめちまえって!」
 しかしエウリュディケは動きません。

 「もう・・・決めたのか・・・」
 「うん・・・」
 彼女の頬を涙が伝います。

 エウリュディケは「自由」ではありません。しかし「自ら決めた」のです。彼女は、王妃に「された」が王妃に「なった」。もちろん王との婚礼もカツアゲも、特殊場面ではありません。「誰もが」自由に憧れ、しかし自由ではなく、けれども自由に「決める」のです。(もう少し)