承前、曲がる自由

 それはそれとしてなどといっていられない世の中ですがそれはそれとして、ある日、行きつけの店でランチをとった後、本屋で雑誌を立ち読みしてから、社に戻ろうとしていたとします。そのコースだと普通は花屋の角で左折するのですが、どういうわけかその日は、ひとつ手前で曲がったのでした。
 誰かに押されたわけではありません。曲がったのは私です。でもなぜ?

 ところがそう聞かれても困ります。理由もきっかけもありません。というより、曲がろうとして曲がった、という記憶がないのです。「ほんとだ、曲がったんだね」、と過去形で聞き返す始末。つまり私は、無意識に曲がったのでした。

 しかし無意識といっても、私は気絶したわけではなく、身体の統合機能も認知機能も、いつも通りに働いています。例えば左に曲がったのは会社の方角だからで、脳内地図が左を指示したのでしょう。他にも、大体の時刻、自分の体調や普段の歩速、気温や天気、会社での自分の地位や午後の仕事に見合った帰社すべき時刻、その他のデータが、意識下で総合的に関与して、私は、ある速度で左に曲がったのでしょう。
 確かに曲がったのは私ですが、曲がったと気付いたのは曲がった後です。曲がった時点では、私の意識的指令がないまま、意識下のプロセスが私を左折させた。だから、私は曲がらせられた、と受動態の過去形で語ることもできるでしょう。私は曲がったが、曲がらせられた。  

 長々とつまらないことを書いてしまいましたが、よくあることですから、犬井氏も、こんなシーンをネタにして、「ここで曲がるのも、もう一つ先で曲がるのも、自由だぁ」、などとはいわないでしょう。(続く)