曲がる自由2

 では、無意識にではなく意識して左折した、という場合はどうでしょうか。曲がり角の少し手前で、前からスマホ片手の高校生の自転車が来ることに気が付いたので、避けるために曲がった、とか。最近ここで曲がってなかったが、もしかして新しい店でもできてるかなと思って曲がってみた、とか。見えた自転車や想像した新しい店は、「なぜ?」と聞かれれば答えることができる「理由」です。それらの理由で私は曲がった。それらの理由が私を曲がらせた。
 ただし、意識的であっても、自転車や新しい店のような、はっきりした理由がない場合もあるでしょう。何となく「ここで曲がってみようかな」と<思って>曲がってみた、とか。あるいは、「理由はないが、今日はここで断固左折するぞ」、と力んで曲がった、とか。
 しかし、無意識に曲がろうと、「断固曲がるぞ」と大いに意識して曲がろうと、あるいはまた、理由なしに何となく曲がろうと、自転車を避けるためという明白な理由があって曲がろうと、そんなの関係ナイ。ここで曲がっても、次の角で曲がっても、どちらも結局会社に戻る・戻らされて、午後の仕事をする・させられることに変わりはありません。
 そう思えば、犬井風に「曲がるのも曲がらないのも、自由だ」、といっても意気があがりませんが、逆にまた、どっちでも同じなのだからどっちにしようが自由だ、という言い方はできない、ということでもないでしょう。もしかすると、ある意味これこそが自由なのかもしれません。干し草を右から食べるのも左から食べるのも、ロバは「自由だ」。どっちにしても食べるのですから。
 例えば「自由電子」の「自由」は、束縛を受けていないという意味で、だからそれはありないようですが、しかし処理仮説として「自由」だとされます。「動く」だけではありえず、全ては「動く=動かされる」のですが、それでも「自由だぁ」ということでしょうか。

 しかし、ロバもルンバも、しょぼい自由の結果、ここの角か次の角で左に曲がるのですが、人間は何と、逆に、右に曲がることもできるのだそうです。