逆に曲がる自由

 では、逆に、右に曲がるのはどうでしょうか。

 無意識に右折: といっても、「気が付くと右に曲がっていた。何やってんの、私。笑って引き返した。」・・・というようなケースは何でもありませんから除外です。
 無意識に右折: 「気が付けば右に曲がっていた。俺の身体が、戻るなと告げていた。俺は会社を辞めることにした。」・・・昨日までは無意識の束縛で、今日は、無意識のうちに解放された、ということなのでしょうか。
 意識的に右折: 「私は決心した。あんな会社なんかどうでもよい。辞めようと決めて、右に曲がった。私は私を解放した。」・・・こうなると、意識的で意図的な、私の行動です。ロバのしょぼい「自由」などではなく、人間的というか主体的というか、立派な決断行動に見えます。

 ところで、「私は私を解放した」、と今書きました。とすると、二つの私があることになります。「私」は<私>を解放した。<私>は「私」によって解放された。<私>を束縛していた例えば会社から<私>は解放された、そのような<私>のあり方を「自由」といってよいかもしれません。しかし、柵の戸が風で開けば、ロバも草地に出て「自由に」草を食べるでしょう。
 とすると、「自由」とはむしろ、私を「解放する」、私に「解放される」というそのことなのでしょうか。