「アスリートに罪は」

 五輪強行への批判的な言説は、開会以後も収まりませんが、多くの場合、「アスリートに罪はないが」という常套句が入っています。炎上対策に入れただけという人もいるかもしれませんが、たいていの場合は、本気でそう思って書いているようです。森、橋本、山下、みんな元アスリートですが、現役「アスリートには罪はない」、と。

 「嘘と裏金で招致し、以後のあれこれは書くのも汚らわしい強行五輪だ。ただし、選手たちは、そんなことに関与していない。彼らは、ただひたすら、より速くより強く・・・記録だけ勝利だけを目指して努力してきたのであって、記録と勝利以外のことは、関わっていない、考えもしない。アスリートに罪はない。」

 しかし、世の中には「罪がないという罪」がたくさんあります。

 もちろん、アスリート、選手とひとくくりにすることは問題で、他の分野と同様に、いろんなことをしっかり考える人もいるでしょう。しかし、「アスリートに罪はない」という場合は、おそらく、「競技だけに打ち込み、競技以外のことは何も考えない」純粋な競技者が想定されています。

 「五輪強行が政治的に社会的に問題があるとしても、アスリートは、五輪や自分たちの行動の政治的意味や社会的意味について、何も知らず、何も考えず、ただひたすら(国を背負って)自分が勝利することだけに全身をささげる純粋な存在であって、だから、アスリートには罪はない」。

 つまり、「罪はない」とされることで、純粋アスリートは、純粋軍人と同類に扱われているわけです。

 純粋軍人に罪はない?