どちらも同じ

 (いつものくせで、面倒になってきましたが、まあ、もう少しだけ)
 ここで左に曲がっても次で曲がっても会社に戻るのは<同じ>なら、ロバでも自由気軽に選べますが、突然右に曲がって職場に戻らないというのは、既定の状況全体を覆して自分を解放する(自分が解放される)、人間的自由の発揮のように見えます。
 とはいえ、実際の事情はいろいろで、「え? また辞めたの。どうして?」「いや別に理由はないんだけど」、というようなこともあるかもしれませんが、普通は、何か理由があって意図的に会社に戻らないと決めるのでしょう。突然タクマラカン砂漠に行きたくなったとか、派遣先の職場が予想以上にブラックでとか。我ながら、あるいは他人にも、勇気ある、あるいはあきれた、あるいは切羽詰まった、決断行動だと認められそうです。
 しかし思えば、左折と直進はどっちでも<同じ>で、でも右折は<それとは違う>という区分けもまた、あやふやなものでしかありません。歩いてもバスに乗っても、駅まで行くのは同じだし、駅からJRでも地下鉄でも、映画を見に行くのは同じですが、家を出たところで突然気が変わり、駅も映画もやめたとすれば、どうせ<同じ>という枠組みを拒否する<異質>な自由の行使に見えます。「ホームに電車が入ってくるときね。もし線路に飛び下りたらどうなるんだろうって、時々思います」(加納朋子)。さすがにロバは、そんなことは思わないでしょう。多分。
 けれども、枠を組み換えて眺めれば、予定通り出かけて映画を見るのも、気が変わってステイホームで友人と過ごすのも、どちらも<同じ>ありふれた休日の過ごし方という言い方もできます。ホームに飛び降りないか飛び降りるのか、「生か死かそれが問題だ」としても、こんなところで言及するのは不謹慎ながら、「自分自身からの排除」という状況の下では、生きること死ぬこと殺すことが<同じ>になってしまうと雨宮処凛氏は言っています。