2021年のリベラル

 残り1日。国内的には、酷い状況にもかかわらず、コロナ禍の下で、人々が結局現状維持を選んだ年だったということにでもなろうか。
 衆院選に敗北した立憲民主党新執行部は、共産党との連携を考え直したり、政権批判を控えて「政策提言」をアピールしたりすることで、党勢を立て直すつもりらしい。そういう小手先の対応に比べれば、維新の激しい攻撃を受けて議席を失っただけあって、辻元清美は、もう少し基本的な敗因を語っている。
 「私たちの掲げる、多様性を大事にしてパブリックの役割を守るというリベラルな考え方は、分厚い中間層がいたときには支持されやすかったのですが、コロナで格差が拡大し、不安や不公平感が広がる中で、それとは逆の維新的な主張──既得権益を指差し、『この人たちは敵だ』と憎悪に近い対立を煽る政治が支持される土壌が生まれているのを感じます」。「アメリカでバイデン大統領の支持率が急落し、トランプ前大統領の人気が再燃していると聞きますが、維新支持が広がる日本もダブって見えます」。
 「リベラルな考え方」が「多様性を大事にしてパブリックの役割を守る」というようにまとめられるかどうかは別として、格差拡大で「中間層」が減り「リベラル」支持が薄くなった、という説明は分かりやすくはある。ただ、富裕層/中間層/貧困層、あるいはブルジョア層/プチブル層/プロレタリア層が、それぞれ右派保守/リベラル/左派革新に対応している、といった構図は、もはや意味をなさなくなっている。(例えば、田中拓道「リベラリズムとは何か」、吉田徹「アフター・リベラル」など)。
 ソ連崩壊後、カウンター体制が消滅し、ただ一つの道が残った、と一時は信じられたのであった。自由市場が世界を席巻すると、豊かで自由な生活を体験した人々は、政治的にも自らを自由な主体と認めて、いずれ民主主義システムを選ぶ筈だ、と。
 しかし今や、勝ち残ったはずの「リベラリズム自由主義)」と「デモクラシー(民主主義)」そのものが、根底から問い返されている。(例えば、P.J.デニーン「Why Liberalism Failed? リベラリズムは何故失敗したのか」、藤井達夫「代表制民主主義はなぜ失敗したのか」)。
 辻元は、「敗因をいろいろ挙げましたが、他人が悪い落選というものはなく、結局自分なんですよ」、「有権者の審判は、私はすべて正しいと思っている」、と潔い覚悟を決めて、「中間層」に期待して「リベラルの再興」をはかろうとしているのだが、しかし、冨田宏治氏は、「大阪で維新を支持しているのは貧困層を憎悪する中堅サラリーマン層」だと指摘している。酷い反キャンペーンで辻元を引きずり落したのもまた、「中間層」だったのかもしれない。

  立民のことなどどうでもよいが、闇は深い。 (*政治家は敬称なしにしている)

 それでも、明後日には、新しい年になる。みなさま、よい年を。