「国を守れ」という呪文

 「国を守れ」と為政者がいうと、「国を守るため」に戦争が始まり、殺したり殺されたりする。他国に軍事侵攻するのも、他国の基地を先制攻撃するのも、「国を守るため」である。 他国の侵入軍と戦うのも、他国の先制攻撃より早く先・先制攻撃するのも、「国を守るため」である。とにかく、「国を守るため」といえば、戦争が正当化され、「国を守れ」といえば、多くの国民が戦って死んでくれる。 
 「国を守る」とは、正直、何を守ることなのだろうか。

 「国」の要件は、国土、国民、国体といわれる。
 国が破れても山河は残るとはいえ、勝っても負けても、戦争すれば山河もまた破壊される。何ごとももない方が、国土を守るにはいいに決まっている。
 国民についても、戦争をすれば殺されるのだから、しない方が国民を守るにはいいに決まっている。と思っていたら、先日の新聞に有名大学の政治学者が、戦争して死ぬ数より、戦争せずに占領されて虐殺される数の方が多い可能性が高い、と書いていた。だから国を守るために戦え、と。アメリカに占領されると皆殺しにされるから最後まで戦え、と叫んでいた軍人と同じ論理である。まあ、実際の歴史にはいろんな事例があるから、白旗を掲げれば絶対殺されないとはいえないだろうが、しかし逆にその方が殺される確率が高いともいえないだろう。少なくとも多くの常識人は、「ホールドアップ」といわれた時には手をあげる方に賭ける。戦争などしないにこしたことはない。

 というわけで、残るは政治体制、昔でいえば「国体」である。生命をかけて「国を守れ」とは、生命をかけて現在の「国家体制」を守れ、ということになる。たとえ国土が破壊され尽くしても、たとえ国民が大量に殺されても、天皇マッカーサーに取り替えるな。「国を守れ」「国体を守れ」、と。
 そして、殺し合いに参加せずに生き延びることができるなら、拝啓マッカーサー様でも天皇様でも構わない、などいう輩は、非国民として、多分前線に送られる。
 プーチンやゼレンスキーや高市早苗は生き延び、殺し合いなどしたくなかった若者が、やはり死ぬのである。