暴力はいけない

 ひろゆき氏が、こんなようなことをいっている。「言論で言うべきであって暴力はよくないよね」というような、当たり前のきれいごとをいいたければ言ってもいいが、でも、言ってもしょうがないと思う。与党の人が「野党の言うことは一切聞きません」と演説で言って、それが悪いことを言ったというふうになっていない。つまり、「少数派や弱者はどれだけ声をあげても聞かないよ」と政権中枢の人が言っているわけ。そうすると「じゃあ少数派の人って何を言ったって聞かれないじゃん」、「言論じゃ変えられないよね」と考える人が出てくるのは当然では。と。
 モリカケサクラ疑惑をはじめ言論による質問にまともな言論で答えず、野党の言論は全く無駄だと公言する。「暴力に屈せず言論を守れ」とかいった発言をするだけの評論家諸氏は、誰に何をいっているのか。
 それでも、たとえ少数派の言論が無視されているとしても、その他どんな理由があったとしても、それでも暴力は絶対いけない。そういっているのだとすれば、評論家諸氏は確かに正しい。
 どんな場合にも、暴力はいけない。例えば、他国の軍隊が国境を越えて入ってきた場合でも、国連をはじめ国際世論に向けて、あくまで「言論」でアピールすべきだ。撃ってはいけない。撃っては戦争になる。それはいけない。暴力反対・言論擁護の評論家諸氏は、「撃て、殺せ、戦争こそが正義だ」、などという筈がないし、武器援助で稼ごうというアメリカ筆頭の陣営には絶対組しない筈である。ん?
 あるいはまた、海兵隊帰りの男が、たった一人のパルチザンとなって、自作の武器を手に、家族の人生と身上を奪った巨大組織に戦いを挑む・・・といった類のアクション映画は既に何本も作られていて、われわれは庶民は、彼の怒りの鉄拳暴力を、ポップコーン片手に楽しんだりしてしまうのだが、評論家諸氏は、そんな軽率なことはしない。痛めつけられた孤独な反逆者が、遂に悪の集団と結びついた大統領や元首相を狙う、といったラストシーンでも、そんな暴力ヒーローの方に感情移入するなんてことは絶対しない。筈である。

 悲しいかなわれら庶民は、戦争映画に興奮したり、アクション映画に手に汗握ったりする。その上、言論は無視される。しかしそれでも、暴力はいけない、と評論家諸氏がいう。そしてもちろん、それは正しい。