戦争を

 呑気なこともいってられない。予想通りの大型汚職はともかくとして、オリンピック競技そのものは去年で終わったと思っていたが、気付けば、世界がまるごと常時オリンピック状態になっているらしい。それぞれ自国チーム意識が高まり、とにかく負けるなとか取り戻せとか、下々を鍛え統率してくれる、いささか危なくても「闘う」剛腕監督への支持が、あちこちの国で目立つ。
 そういえば、昨日は、ミサイルが飛んだと、Jアラートで大騒ぎだった。飛行機も列車も止まり、TVは番組を中断して、外出中の人は建物内に入るよう呼びかける。剛腕監督に頼っていると、戦争は、いつか突然、このような緊急放送と共に、他人事のように始まるのかもしれない。

 戦争といえば、ロシアとウクライナの戦争、「森保ジャパン」という言い方にならえば、プーチンロシアととゼレンスキーウクライナの戦争が、まだ続いている。いや遠い地のひとごとではないと、高橋源一郎氏が本を書いたらしい。
 それでも、その戦争が、かつて我々の国が始めたような戦争であるなら、もちろん文学者ならずともいろいろ悩みは大きいだろうけれど、「侵略反対」は、捻じれるこなくそのまま「戦争反対」に続く。

 しかし、今回の戦争で浮上したのは、「侵略反対」だから「戦争賛成」という、臆面もためらいもない物言いである。侵略から国を守ることは正しい、ゼレンスキーのような「戦争は正しい」。こうなると、「立ち向かえ、殺せ」という声にウヨもサヨもない。「民族の自由を守れ、決起せよ祖国の労働者 ~ 前へ前へ進め」。

 例えば、近所の人が暴漢に襲われたときや池で溺れているときなどには、後先なく飛び込むと自分の命に関ることにもなりかねないから、逃げて通報するのがよろしいと日頃からいわれる。ところが、襲われたのが「国」のときは、後先構わず命がけで前線に飛び込めと強いられる。近隣共同体は見捨ててよいが「国」は命を捨てて守れというわけだ。それほど「国」はえらいのか。
 えらいのである。