強いなら誰でも

 手の届かないところで一旦決まると、たちまち70%を越える支持率。前にも増して独裁王でも別に構わないようで、なお50%を越えているらしい。
 例えば、学術会議がどうなのかはいわないが、任命拒否については、いっていることが無茶苦茶である。しかし、無茶でも嘘でも違反でも何でも、支持率が下がらなければ問題ない。独裁王は、たかをくくって解散時期を探っている。
 誰でも何をしても、支持するというより反対しない。「見たいものしか見ない」のだ、と宮台真司氏はいっているが、確かにそうなのだろう。格段と多くの情報を格段と簡単に見ることができる。全てはもちろん見られないから、見たくないものは見ずに見たいものだけを見る。確かにそれは、SNS時代の現状だろう。
 けれども、よくいわれるように、私たちが「買いたいものを買う」というのは虚構であって、実際には「売りたいものを買いたく思わされている」ように、「見たいものを見る」のもまた、「見たく思わされている」のであろう。例えば、「おまえの、われわれの、見たいニュースはこれだ」と示されたニュースを、私も「見たい」。
 しかしさらに思うなら、昔から人は見たいものを見、あるいは見たく思わされてきたのではなかったか。同じ見たいものを見ることで、人は「仲間」と縁を結ぶ。ということで、山向うの火事は見ずに、わが家わが村を人は見てきた。
 しかし、と島田裕巳氏はいう。人が家と村から出てゆく時代になると、学校や軍隊が、そして会社が、また宗教教団が、あらたな村となっていったが、それら全てが、今、解体消滅しつつある。無縁社会の到来だ、と。
 家族も職場も郷土も、その他あらゆる絆が溶けほどけ、あらゆる縁が消えてゆく。そして人々は、「国」という残る縁にすがろうとしているのだろう。強い独裁王が君臨する強い国。強ければ誰でもいいのだ。

敗走記(おしまい)

 嫌なことは見ないと書いたまま、ほんとにニュースを見ていなかったところ、半分予想はしていたが、それでも予想を越えたことが起こっていたらしく、昨日の新聞やネットニュースを引っ張り出した。

 16日、日本学術会議梶田隆章会長が首相と会談したが、会長は、要望書を提出しただけで「踏み込んでお願いをしていない」、つまり無言で渡しただけ。当然、首相は、「対応や理由について言及しなかった」、つまり無言で受け取っただけ。
 逆に首相から会長に、「学術会議は国の予算を使う機関として国民に理解をされる存在であるべきだ」、「しっかり貢献できるようやってほしい」と要請。それに対して会長は、「早い段階からしっかり改革していきたい」と伝え、「社会や国に対し、どういう風に貢献していくかを話し」、「担当大臣を中心に」「会長と協議しながら、学術会議のあり方について検討していくことで合意した」、という。
 「日刊スポーツ」によれば、安倍政権で文部科学事務次官を務めた前川喜平氏が、自身のツイッターを更新して、「梶田学術会議会長は、何をしに官邸まで行ったのか。腰砕けもいいところだ。菅首相の思う壺にはまってしまった。情けない」とつぶやいたとのこと。
 安倍政権の事務次官に「情けない」といわれる学術会議会長。
 ほんとに「敗走記」になってしまった。

敗走記(4)

 例の騒動は、半分予想通りの嫌な展開になっているようで、卑怯にも、嫌なことは見ていません。

 「自由」には二通りあるようです。ひとつはスカラー(暇な人)の自由、つまりホームレスの自由です。もうひとつは権利としての自由ですが、これは、権利であるかぎり、認めるとか認めさせるとかいう次元の話で、王が認める、王に認めさせる。勅許状や勅任官の特権的自由です。 

 大勢の部下を連れたアレキサンドロス大王が、日向ぼっこをしているディオゲネスのところにやってきて「望みはないか」と声を掛けたところ、「日陰になってるからどいてくれ」と答えた、という有名な話があります。
 ディオゲネスという人は、元はそれなりに富も地位もあった人らしいですが、いろいろあって、ホームレス生活をしていたようで、大王の申し出よりもホームレスの自由を選んだ、ということになっています。
 しかし、どうせ作り話でしょうから、こうであってもいいわけです。
 「望みはないか」
 「邪魔しないでほっといてくれ。自由でいたいんだ」
 「自由の邪魔なんかしない。逆だ。予は、自由の邪魔をしている空き缶集めから解放してやれる。二度と奴隷商人に捕まって売られることもなく、自由でいられるぞ」

敗走記(3)

 例えば学問の自由といわれるものは、芸術表現の自由、信仰の自由などなどや、あるいは司法権の独立、ジャーナリズムの独立などと共に、経済活動の自由を基にして、権力支配への抵抗と戦いの歴史の中で記述されますが、しかし、「認めさせる」ことと「認められる」ことは、それほど単純には区別できません。アカデミーが王からも自由でありうるのはそれが王が認めたロイヤルな機関だからだ、といった倒錯も起こるわけです。

 こうして(と、面倒なので、乱暴に一足飛びですが)、わが国における「学問の自由」なる觀念も、帝国が帝国のために創設した「帝国大学」の権威と重なることで先ず確保されたのでした。
 それでも、豊かな(余裕のある)時代には、学問の自由でもジャーナリズムの独立でも、一定許容され、時には敬意さえ払われたのでしたが、しかし、いまや余裕がありません。いまこの国に生きて、不安を抱えた人々の多くは、だれであれ今の王というだけで、敗走の長征を導くモーゼと見る他ないようです。語彙も貧しい陰気なあの人自身も、まるで昔の王のつもりですが、だれであれ従うことしかできない多くの民びとは、従わない者に対する寛容もましてや敬意など持ちようもなく、どういう理由か聞く耳をもたずに、王に楯突く人々に不安からの怒りをぶつけることもあるでしょう。

 ・・・などと、部外者だから他人事として書いてもいられるわけですが、一方また、研究資金がないと死活問題、「同調するから金をくれ」、という人もいるでしょう。とにかく心貧しい時代です。

敗走記(続)

 結局しかし、俯瞰すれば、世の中が貧しくなってきた、ということなのでしょう。
 テレビはほとんど見ていませんが、多分これからしばらくは、(任命拒否を行革推進にすり替えるという官僚の戦術に乗った)一部「テレビ識者」らの誘導で、政府よりも学術会議の方が、バッシングの的になってゆく予感もあります。
 政府と国がイコールになっている昨今ですので、
 A 「国(政府)に楯突くのはけしからん」
 B 「国(政府)に楯突くのはけしからん」というのはけしからん
と並べると、Aの方が単純であり、単純な方が、視聴者に分かりやすく乗りやすい。

 もともと学者スカラーは(学校スクールも同じですが)、ギリシア語のスコレーから来ています。意味は「ヒマ」で、およそ学問なんてものは、ヒマな遊びだったわけですね。もちろん、ヒマのある身分の人々の、です。
 ところが、時代が下ると、(専門家でないので、以下は怪しいですが)「知」が権力に役立つ時代が来ます。初期信仰が教義をもつ広域宗教に進むと神学が宗教権を支え、直接暴力が金と法による広域支配に進むと世俗の諸学が王権を支えます。西欧中世の大学は地域権力からの自由と自治を確保しますが、それを保証するのは法王なり王なりの勅許状であって、王は一定の「自由」を保証することで「学」を囲い込みます。
 さらに進んで、「知は力」つまり「学の知」が「国の力」という時代が来ます。ロンドンにできた王立学会ロイヤルソサエティには、王の勅許を表す「ロイヤル」という名がついていても、王は金を出さなかったようですが、後発国は、金や地位を提供して「学」を育て「アカデミー」に囲い込むことに力を入れます。産業機械の製造も強力軍艦の建造も支配秩序の整備も侵略圧政の正当化も、「学」なくしてはありえません。
 こうして、「国」は、自由と金を「学」に投下してゆきます。大学を作り研究施設を作り、潤沢な「資金」投下と「自由」な研究保証が、「学」を活性化し、結局「国の力」を支えるのだということを知っているからです。
 しかし、これができるためには、もちろん国が豊かでなければなりません。(また明日)

敗走記

 大昔の「王」は、理由を言いませんでした。理由を言えば理由に「従った」ことになるからです。理由を言わないことで、王は、自分が何物にも従わない絶対的な権力者だということを見せつけます。一方、理由を知らされない臣下は、また人民は、王の意図を「忖度」して自己規制する他なく、卑屈な行動を強いられます。

 問答無用の菅「王権」の学術会議会員任命拒否については、次々と批判の声があがっています。それらについては、全くその通り、という他ありませんので、少しだけ別の面から書こうと思います。といっても、ありふれたことなのですが。

 繰り返しますが、全く理不尽な暴挙であって、批判の声があがるのは当然なのですが、とはいえ、全国の大学の学長が教授会が一斉に抗議声明を出したり、学生が各地でデモやストをしたり、学会や研究団体の抗議の決議が陸続と続いたり、といった気配はなく、当の学術会議でも、「要望」書は出したようですが、要望が通らない場合には政府関連委員を一斉に辞任することを決めたとか、抗議脱会する会員が続出するとか、そういった事態は起こっていません。来たるべき国会での野党の追求も、木で鼻をくくった答弁に直面するでしょう。

 マスコミもそれほど頼りになりません。
 「このところ急に世の中の空気が変わってきましたよね。特にメディアの世界では、政権政党から~要望書が出されたり、~総務大臣がテレビ局に対して、電波停止を命じる可能性があると言及したこともありました。~確実に何か異変が起きている。これは今書かないと手遅れになるかもしれないと思いました。」太田愛:『天上の葦』の執筆動機について)

 マスコミ依存のわれわれ庶民も頼りになりません。選挙になれば王党が圧勝するでしょう。
 「力のある長いものに巻かれれば自動的に得になる。実際はそんな保証などないのだが、多数派に属する安心感は得られるだろう。」
 「巻かれろ 巻かれろ 大きな力に / アタマの中を真っ白に 抵抗しないで / 巻かれろ 巻かれろ 大きなハッピーに / 天から降る蜜の雨 君よ飲み干せ
 まさに日本中が、高い支持率に支えられた長期政権の大きな力に巻かれていくさなかのメガヒット曲だった。「蜜の雨」なんか一滴も落ちてはこないのに・・・」(木村友祐『幼な子の聖戦』) 

 そもそも国の金で存立している学術会議の「権威」のありようは言わないにしても、独立といいつつ既に任命制に変わり、任命は形式的だといいつつ既に複数候補の名簿提出を受け入れています。そのつど抵抗もした上で結局容認させられた経緯あっての今回の事態です。王権の方からいえば、かなり前から一歩三歩と進めて来ての今なのでしょう。

 時を同じくして東大では、新総長就任を巡って、財界人が入った選考会議の選考が不透明だと揉めています。何事にせよ昔は良かったと一方的にいう論には与しません。昔には昔の不理不尽があり、今には今の理不尽があるというだけの話です。しかしともかく、昔の教授会のありようは今は見る影もなく、全国的にトップダウンの大学運営が常態となり、「外部」を入れた少数の「トップ」が、人事権を握り運営権を振るうというのが、もはや「時代に即応した効率的な大学経営」として定着しています。

 「学問の自由」はいわゆる自由権ですが、もうひとつ社会権というのがあって、つまりは生存権、生活権、平たく言えば食う寝る権利です。なのですが、歴史的にも原理的にも、自由は食う寝る生存より先だということになっており、つまり、犬は生きるために飼い犬になるが、人は自由のために死ぬのだ、といわれています。確かに革命も起きるのですから、時に人は自由のために死にますが、けれども、いつもそうとは限りません。いや、たいていそうとは限りません。
 「そうなのだ。仕事、つまり「食いぶち」には、「信念」だの「友情」どのを無効にする破壊力があるのだ。」(木村友祐) 

  学問の「自由」があるなら、学問にも「生活、生存」があります。人は、自由がなくて死ぬこともありますが、「食いぶち」がなくなれば確実に餓死します。既に一歩三歩を許して来たのは、許したのではなくても押し込まれ来たのは、学問研究の「生活、生存」権を支える「食い扶持」の絞り上げが効いて来たからでしょう。犬も人も食べ物がなければ餓死するように、天文学研究は望遠鏡がなければ餓死する他ありません。
 少し前に、文科省の官僚が、予算カットによってノーベル賞山中教授の研究の「息の根を止める」権限をもっていることが明らかになりました。山中教授はマラソンで寄付を募って研究費の補填をしているようですが、そういえば、確か徳島大学の教員が、研究費がゼロのため、クラウドで80万円の研究費集めをしたというニュースもありました。
 研究費を全員ゼロにして、一旦息の根を止める。そして、「競争的重点配分」とか何とかいう名で、めぼしい犬だけを拾い上げて餌をやる。どこに餌を撒くのかを決めるのは王の臣下です。文科省だけではありません。各省庁がそれぞれテーマに叶ったところに研究費の餌をやる。例えば、先に触れたテーマでいえば、文化庁とか経産省とかが、クールジャパン関連の「研究」に餌をやって、関連予算獲得に利用する、など。

 生きたければ、「外から」食い扶持を稼げ。「産」と提携し、あるいは「官」に迎合して、研究費を頂くために、膨大な嘆願書いや申請書を作成して、いかにこの研究が貴企業の、貴省庁の思惑に役立つか、先を争って審査をお願いし、お眼鏡にかなってお許しをえたところが食い扶持を頂いて生き延びる。
 ここまでは、もはやシステムが完了してしまったといえる現状ですが、ただ防衛省の軍需研究だけは、困ったことに応募が少ない。学術会議が歯止めをかけるからだ、と臣下が王に進言したのでしょうか。 

 ・・・・と、昨日ここまで書きかけていたところ、「任命拒否」の問題を「行政改革」の問題にすり替えるという手を打って来たようです。先に、「そもそも国の金で存立している学術会議の「権威」のありようは言わないにしても」、と飛ばした隙間を突いて来たわけで、さすがに百戦錬磨の官僚です。といいつつ、菅王「私は99人の名簿しか見ていない」。それでは、だれが削除したのか。しかし、追求を続ける記者が記者クラブの住人にいるのかどうか。

 書く気がなくなりましたので、中途半端ながらこれで終わります。

ますます貧しく、ますます豊かに

 昨日の夕刊、一面トップに大きな活字が踊っていました。

 GDP年27.8%減  戦後最悪

 記事には、「マイナス幅は比較可能な1980年以降で最大で、事実上、戦後最悪の落ち込みだ」。「GDPの減少率は、~これまで最大だったリーマン・ショック直後の~年率17.8%減も、大きく上回った」、とありました。

 今や株価は実体経済を反映していない、ということはそれなりに承知しています。しかし高校の教科書には、世界恐慌時に株価が大暴落して富豪が物乞いをしている写真が出ていましたし、私は全く縁がありませんが、リーマン・ショック時にも株価の暴落で、株を持っている人が「ショック」を受けたのではなかったでしょうか。

 ところが、今回。少なくとも現在までは、株価はほとんど下がらず、「ショック」は全面的に、株など持っていない貧民の肩にかかってきています。経済音痴の私には全く理解ができませんが、「持てる人たち」の方がますます賢くなって、何が起こっても格差が拡大の方向に進むようになっているのでしょう。

 以前、格差をチャラにする戦争が起こってほしいと発言した人がいましたが、今では、戦争でもコロナでも何でも、チャラになるどころか、貧しい者はますます貧しく、豊かな者はますます豊かになってゆくようです。