我々はなぜ

 一強に憤慨し、一強を許す空気に憤慨し、支持する人々に憤慨する。人々が騙されているとしてマスコミに憤慨しても、騙されたままでいる人々に憤慨しないわけにはゆかない。しかしそれらの人々は、少なくとも相対的には多数者である。
 そうではあっても、実にどうしようもない最悪の政権を支持し、それだけでなく批判的な声を叩くとは、実にどうしようもない連中だ。と、そのように憤慨して叩くと、連中は連中で、権力を叩くとは反日か、と憤慨して叩く。
 叩く(叩き合う)ことは、大事なことである。それはよい。
 それとは別に、ここで問題にしようとしてきたことは(というほどのことでは全くないが)、どうしようもない一強政権を、我々はなぜ支持するのか、ということである。<連中は>ではなく他ならぬ<我々は>、なぜ、実にどうしようもない戦後最悪の政権を、少なくとも相対的には、空気のように支持しているのだろうか。
 これまでの言葉の使いようのように従えば、端的なウヨではなく、ナショナリズムでもないのではないか。

支える人々

 前回を一旦削除して書き直す。どうも道が悪かった。といっても道を作りながら歩いているのだから、当方が悪いのであるが。
 「アベ一強」というひとつの「空気」が全国を覆っている、という話だった。それがいつの間にか、空気が二つある、いやそれ以上あることになってしまったが、元の道に戻ろう。
 アベは実にどうしようもない、戦後最悪だ、といった声が、巷に満ちている。にもかかわらず一強政権が続いているのは、与党の反アベ勢力が弱いからであり、そんな与党を許しているのは野党が弱いからであり、野党が弱いのは人々が支持せず投票しないからであり、つまりは、一強政権を支持する人々が、投票する人々の中で相対的に多数派だからである。当たり前のことだが、「民主主義」システムが、アベ一強を支えている。
 そうなると、「アベ(政権)は実にどうしようもない」という声は、そんな「どうしようもない政権を支持し続ける人々がどうしようもない」、というところに行ってしまいやすい。しかし問題は、何故そうなのか、ということだ。なぜ人々は、相対的にだが強固に政権を支持し続けるのか。
 「ナショナリズム」ではなく、「自国主義」ということばを使ってみよう。(眠くなったのでやめる)

血と地と空気

 「民族の血と地」といえばナチスだが、「血と地」という句を最初に使ったのは誰かは知らない。知らないといえば、ナショナリズムパトリオティズムを、愛国主義/愛郷主義と訳し分けていいのかも知らないし、いわゆる農本/愛郷の関係についてもよく知らない。けれども、例えば特攻機戦艦大和の最期の特攻などを美化する話の定番で、死に向かう者が自らを納得させるのは、「大君の辺にこそ」でも「帝国兵士として」でもなく、家族と故郷の山川を護るためという幻想である。「国」という抽象観念は、代々の「親族、家族」(血)の住む「郷土」(地)によって具体化され納得されてきた。
 とはいえ、思えば「家」からの自立と「故郷」からの脱出こそ近代人の課題であった。今、人々は家族や親族から逃れ、「血を受け継ぎ護る」ことに執着しない。先祖代々の墓は放置され、生んだ子さえネグレクトしたりする。また、生まれ育った郷土への執着も希薄化し、人々は「地を受け継ぎ護る」ことに執着せずに、限界集落シャッター街を放置して都市に集住してゆく。
 ありふれた事を書いてしまったが、もし「血と地」の決定的な希薄化が起こっているとするなら、いま「ナショナリズム」とは、いかなるものであるだろうか。そういうことはどうでもいいのだが、愛郷ぬきのネトウヨ愛国は、足元が危ういといえるかもしれない。そして、だからこそ、自分たちの足元が「沈む」あるいは「滅びに向かう」という不安を、抽象的な「国」を護りそして「国」から護られるという、単純な構図の中で確保しようとするのかもしれない。
 家も故郷も保護力を失い、というより、進んで親や親族が住む郷土から都会に出てゆき、何千万は望外だが何とか人並み生活を確保しようと、ようやく企業に職を得ている。とはいえ、たとえ正規でも、企業に昔のような終身の保証は期待できない。もはや「沈む」世の中で「滅びに向かう」不安をもって頼れるのは、抽象的な「国」でしかない。
 「どんな政策でも、どうせ大した変わりはない。とにかく強い政府の率いる「国」がしっかりしていてくれないと困る。それでも先行き老人国になってダウンしてゆくらしいのだから。そうであればこそよけいに、マスゴミや野党などの政府攻撃など無視して、とにかくしっかり一強を続けてもらわないと困る。生意気な弱国はやっつけ、地方の農家など犠牲にしてでも、われわれが働く都会の企業を大きく強くし、14万円など厄介な弱者は放置してでも、我々のように、雨にも負けず風にも負けず、しっかり働いて税金を払い、政府を支持する優良な国民を、とにかく第一に考えてもらう。一強の国に護ってもらうため、とにかく一強政府をしつこく支持する。そういう者に、私はなりたい」。

空気とお日様

 (承前)といっても途中から話がすっかり逸れてしまった。道の始まりを忘れてしまったので、戻ることもできず、進むほかない。といっても何処へ? 
 互いに相いれない空気があれば、当然空気への反抗も真逆となるが、「事実」さえもが共通の参照基盤となりえないなら、対話、問答は成立しない。
 そうなると「問答無用」の力ずくで強権が認める空気が、一強「空気」となり、巨大な高気圧が全国を覆い、弱者庶民には慈雨、薫風も惜しむ、どうしようもない「日本晴れ」の日々が続くことになる。
 高橋氏の発言などを引用した『支配の構造-国家とメディア~』(SB新書)でも議論されているように、一強空気の下で、「事実」を含む共通の了解場で話しあえる言葉が消え、極端より中庸、変格より安定、排除より包摂を選ぶリベラル保守層が消えている。
 ところで、先にも少し触れたが、その本で堤未香氏はこういうことをいっている。
 「かつては、親が子によく「お天道様が見ているよ」と言い方をしましたよね。アメリカなら「神様が見ているよ」でしょうか。ところが、「株主資本主義が拡がり」、そういう「ある種普遍的なモラル」が継承されにくくなる。それでも、アメリカではまだ、キリスト教的な「倫理基準を継承しようとしてきた」が、「日本にはそれもなかった。結果として」「互いの顔を見て判断し、多数に自分を合わせてゆくという「空気」の力がますます拡大してしまったのでしょう」、と。
 またまた道を曲がってしまうが、アメリカ(プロテスタント)の「神様が見てる」は本来個人の内的ドラマであるのに対して、こちらのお天道様にはそんな力はなく、「親が子に「お天道さまが見てる」という」という、社会的(親子)ドラマとしてしか成立しない。「そいがこつ、お天道様に許されっと思っちょっとか」などと、お天道様がいうわけではなく、親方とか大旦那とかがいったり、「お前がお天道さまに顔向けできないことをすると、私がご先祖様に申し開きができません」と、大伯母とか姑とかがいったりする。もちろんお天道さまは村八分や家父長DVにも使われるのだが、それも含めて、お天道様の消滅あるいは希薄化とは、ゲマインシャフト的な絆が「てんでんこ」に散逸する現状に対応している。(続く)

空気に逆らう

 (承前)「空」しく「空」々しい人「気」も空気、「風」潮も「風」評も空気。「気」にせぬままに空気に流され、「気」にして空気に逆らおうとする。
 グレタ・トゥーンベリ氏は地球温暖化を放置する空気に立ち向かい、「私の声ではなく、科学者の声を聞いて下さい!」と叫ぶ。温暖化の危機は、科学的に自明なことであり、必要なのは今すぐの行動だというのである。一方、原発は安全だという空気に激しく反撥した広瀬隆氏はいま、温暖化が進行中であることは自明だという空気に反撥している。
 「空気」に流されずに逆らうことが何より大事だと高橋源一郎氏はいう。確かにその通りである。東日本大震災が起こった時、全国のマスコミは被災者を思いやって放送内容の「自主規制」をするが、あるラジオの深夜番組だけは、「ここで自主規制したら何の意味もない」と、「お笑いやエロチックな話で番組を始めるというスタンスを取り続けた」とかで、高橋氏は、それを高く評価する。
 かつて、重篤天皇を思いやって、自主規制の空気が全国を覆った際、井上陽水氏が「お元気ですか~」というCMが問題視された。陽水氏もスポンサーも、自主規制という空気を破ろうとしたのではないだろうが、もしもそれが、意図的な「思いやりの空気」への反抗だったとすれば、さらに、「お元気ですか~」ではなく「お笑いやエロチックな」CMだったとすれば、高橋氏は大いに評価しただろう。
 私たちの社会に、被害者や障がい者や高齢者など、弱者への「思いやり」(正しくは「思いやり」ではなく「権利を認める」ことだが)が、どの程度広がっているのかいないのか、ということは難しい問題である。初めの方で挙げた例を使えば、ある少女は、憲法で認められた生存権社会権が軽視され無視され自分のような生活保護家庭の子がイジメられるという「空気」こそが問題だ、と抗議する。一方クラスの男子児童は、彼女のような家庭が「病院代もタダ」なのを見過ごしている大人たちの「空気」がおかしいという。
 空気に流されないこと、空気に逆らうこと、今そのことが何より重要だ。全くその通りである。しかし、事実がひとつでないなら、空気もひとつではなく、空気がひとつでないなら、空気への反抗もひとつではない。大震災で被害を受けた弱者への思いやりも「空気」である。一強への忖度(思いやり)も空気である。空気であるなら、空気への造反は有理である。出産年齢を超えた女性でも寝たきりでも、「誰でも彼でもできるだけ長生きさせるような風潮、空気はおかしいだろ」というような本音を、知事や政治家が言い、一応問題にはなったが、今も発言者は大臣をしている。彼もまた「空気」に逆らっているつもりであろう。
 山ゆり園事件の被告は反省しない。最首悟氏は何度も何度も会話を成立させようと努力を重ねておられるようだが、どうなっているのか、まだ聞こえてこない。(続く)
 

事実もいろいろ空気もいろいろ

 (承前)。といっても、いつものように読み直しもしていないのだが、ちょっとまた横道。
 ほとんど自分で見聞きするだけの世界で暮らしている時代には、(もちろんその時代でも、あくまで「ほとんど」でしかないが)、例えば、互いに顔見知りの村人のほとんどが、鎮守の森に落雷があったというひとつの「事実」を共有して、ほとんど同じ不安に襲われたりもするだろう。しかし今は時代が時代で、事実も不安も空気も一つではない。
 例えば大方の人はアベ忖度の「空気」に困って何とかしたいと思っているようだが、当の本人は本人で、また彼にとっての「空気」に困っているかもしれない。
 「これだけ高い支持率が続いている一強の私が、これだけカイケンカイケンといっているのに、どうもカイケンに消極的な「空気」が世の中を覆っているようで、実に困ったものだ。それもそうだが、「空気」といえば、やっぱりデフレマインドだ。少子化による人不足のおかげで、非正規でもバイトでも、とにかく仕事はあるので失業率は低く、黒田日銀のおかげで、実体と無関係に株価は高止まり。ところが、さっぱり好況に転じない。法人税も下げ、為替も円安で輸出に有利、利子率も目いっぱい下げて資金調達に困ることはない。企業にとっていうことなしの筈なのに、設備投資と労賃に金をまわして経済の活性化をはかろうとせずに、金を内部に溜め込むばかり。国民も国民で、預金をしても全く増えないし物価が上がるなら金を使ってやろう、といった気にならずに、不安だからと節約と貯金にはげむだけ。折角のアベノミクスを阻む「マインド」という「空気」にはほとほと困ったものだ」、などと。
 いやあの人の面は、アホノミクスが破綻しても外交が失敗続きでも、「困った」りすることはないか。(続く)

「民主的」な罵りあい

 (承前)もちろん、「事実が二つある」という事態は、今に始まったことでは全くない。ただ、橋本健二氏がいうように、今や「格差社会」ではなく「階級社会」というべきであればこそ、「階級が異なれば事実が異なる」という原則が殊更目立つのであろうか。
 その上、以前の「論争」なるものは、「論壇」というコンテキストを共通基盤としながら、限られた「論者」たちが、先月の発語を今月罵り来月罵り返すというような、思えば悠長な活字戦争であったが、今は、罵りあいに超便利な、ネットというプラットフォームが用意されていて、キイを叩けば数秒で過激に罵ることができる。
 しかもこのプラットフォームは甚だ「民主的」であり、ネットカフェの住人でもませた中学生でも誰でもが、僅か数語だけで「識者」でも「マスゴミ」でも誰でもを罵れる。こうして、誰もが簡単に、炎上や「空気」の膨張への参加というリア充感を得られることになる。(続く)