戦争を止めるアンチヒーロー

 誰かが喧嘩しているなら、止めた方がよいに決まっています。とはいえ、普通、喧嘩を止めるのは簡単ではありません。ところが、ひとつ、簡単で確実な方法があります。 

 喧嘩といっても口喧嘩もあればいろいろですが、殴りあったりするような本格的な喧嘩になると、第三者には簡単に止められません。両方ともに言い分もあれば憎しみもあって相手を叩きつけねば気が済まない、ということでしょうから、第三者が横から掛ける声など聞こえないか、聞いても無視されるだけです。あるいは、何だお前は、関係ないだろう、と、喧嘩を邪魔された両者から突き飛ばされるかもしれません。
 映画などでは、「その喧嘩、俺が買った!」とか言って、喧嘩をやめさせ、両方の言い分を聞いて裁定を下す、恰好いい「仲裁」シーンも見られますが、これができるには、喧嘩の当事者双方を敬服させて従わせうる大親分などでなくてはならず、誰にでもというわけにはゆきません。
 あるいは、恰好いい「制裁」シーンというのもあります。悪い奴が弱い者を一方的に傷めつけているようなところに、ヒーローが飛び込んで、強い奴を投げ飛ばす。しかし、これができるには、悪漢よりはるかに強い武道の達人か何かでなくてはならず、これも誰にもできることではありません。
 国連なども、できれば「仲裁」だめなら「制裁」によって戦争を止めたいのでしょうが、たいてい戦争当事者は悪くて強い国なので、なかなかうまくゆかないことはご承知の通りです。

 しかし、最初に書いたように、実はもうひとつ、もっと簡単な、喧嘩を止める方法があります。それは、「強きを挫き弱きを助ける」ヒーローとは正反対に、アンチヒーローが強い方に味方して、弱い方を徹底的に傷めつけてダウンさせてしまう、という方法です。弱い方が倒れて立ち上がれなくなれば、確かに喧嘩は終わります。「義」がなかろうと、そんなの関係ねえ、とにかく「弱きを挫き、強きを助け」て、喧嘩を終わらせる。確かにこれなら、国連にも止められない戦争を終わらせることができるでしょう。

 こうして、ゼレンスキーから領土を奪いレアアースを奪い、ガザ住民からは土地も財産も歴史も文化も全てを奪って強制的に移住させる。これがトランプ流戦争の止め方のようです。
 それでも、戦争で殺し合いを続けるよりいい・・・のかどうかは、遠くからいえるようなことではありませんが、この国の首相は、屈託もなく、そんなトランプにひたすらすり寄り、この国の民は、そんな首相のすり寄りにひたすら期待しているようです。
 

民主制という制度

 幼稚な話で恐縮です。

 前回の直接的な続きではないのですが、最近は海外でも国内でも、選挙の度に、「民主主義の危機」とかいったことばが聞こえたりします。
 民主主義とか民主制は、「民」が主権者ということになっています。とはいえ、例えば市民革命か何かが起こり、専制王に替わって民が主権者になるとかいっても、これまで王ひとりが主権者として行ってきた仕事を、「民」全員が日々担うことになるのではもちろんありません。現実には、政治権力の日々の行使者、いわゆる「為政者」が交替するだけで、違うのは、王に替わって宮殿に入って執務する新たな為政者は、神意や血統ではなく「民の意思(民意)」を権力の根拠だと主張する、という点だけです。
 厄介なのは、その「民意」です。
 内心はともかく表明された民意と為政者の意思の間に齟齬がなく、ひとつにまとまった民意を承けて為政者が政治権力を行使するなら、それこそ民主制の理想に見えますが、現実に対立候補のない官製選挙と反対意見のない満場一致議会という国があるとすれば、まあ現にあるわけですが、それは民主国どころか専制国とか独裁国とかいわれてしまいます。
 「お坊さまと鉄砲」という映画が上映中だそうで、幸福度世界一で有名になったブータンの農村が舞台のようです。といってもネット予告編を見ただけなので、以下は全く間違っているかもしれませんが・・・長年静かに続いてきたブータン王国ですが、やはり民主制にしようということで、憲法を制定して立憲王国に進もうとします。そこで先ず選挙ということになるのですが、敬愛する王様の下で平穏平和に暮らして来た人々には、これまで選挙など無縁ですので、模擬選挙をして体験学習してもらおうということになります。しかし選挙とは「選ぶ」ことであって、どちらを選ぶか二派の舌戦がないと、生きた選挙体験にはなりません。予告編を見ただけですが、映画のブータン民主化訓練も、人々を二派に分けて、自派が正しいと声高に主張しつつ反対派を罵倒する訓練ということになるようで・・・
 そんなわけで、どうも民意一致は非民主的な独裁専制で、民主的と認められるためには、対立と分裂と争いの顕在化が不可欠だということになってしまいます。そこで対立の収め方が必要になって、民主制といえば多数決ということになるのですが、しかし本来多数決は片方の意見を排除する手段なので、そのままでは分裂に進んでしまう恐れがあります。そこで、「議論を尽くす」とか「少数意見の尊重」とかいうことが強調されるのですが、それらは制度ではなくただのモットーなので、トランプを筆頭に、選挙に勝ったからには「専制王権」を手に入れたかのように振る舞う為政者が特に最近少なくありません。それでまた、そういう連中が当選するのですね。今に始まったことではなく、ワイマール憲法下でナチス党が台頭躍進していった際にも、国民は進んで自由から逃走して主権を明け渡していったのでした。
 もっと昔はどうでしょうか。民主制の原点といえば古代アテネのデモクラティアをあげる人が多いでしょう。それも代議制ではなく、クレイステネスなどによる市民権の拡大により、誰でも直接議会に出て発言できます。というと、「誰でも」というが奴隷がいたじゃないかということになって、それは確かにその通りですし市民も男だけです。しかし、民主制であろうとなかろうと、「民」は必ず「非-民」を排除して確定します。例えば、教科書の年表に出ている「1925年普通選挙法」も女性排除の「普通」ですし、「人民」には「人民の敵」は含まれません。他にも、子供や囚人や非納税者や市民権のない外国人などなど・・・
 横道にそれたので話を戻しますが、教科書には、アテネでは「ペリクレスの時代に民主制の黄金期を迎えた」などと書かれています。しかし、「民が主権者である民主制」の黄金期が「ペリクレスの時代」と個人名で呼ばれるのはどういうことでしょうか。
 確かに、ペリクレスの市民議場での演説は実に見事です。例えば、「市民は誰もが為政者の政策を自由に批判したり反対したりすることができるだけでなく、たとえ為政者に対する個人的な羨望や嫌悪感に基づく誹謗中傷であっても、それを止められることはない。このような自由、このようなデモクラティアこそが、われらがアテナイの強みなのだ」・・・とか。これが2千5百年前ですからね。折角とんでもなく素晴しい「ディープシーク」生成AIを開発したらしいのに、中国の政治に関する質問には一切答えないというニュースを聞くと、人類は何をしているのか、という気になります。
 それはともかく、ペリクレスの演説を聞いて「そうだ!」と叫んだり深くうなずいたりしたのは市民議会に集まった市民たちであり、彼を為政者(ストラテゴス)の一人に選び続けたのも市民。市民は彼を批判したり彼の提案を否決したりできただけでなく、失脚はもちろん国外追放してしまうことさえできます。実際その寸前までいったこともあったようですから、その意味では、この時代のアテネ民主制では、確かに市民たちが主権者だったといえるでしょう。そして、そのような民主制アテネは、この時期、経済的にも政治外交的にも文化的にも絶頂期を迎えることになります。
 ところが、先ほど述べたように、この民主制の黄金期は「ペリクレス時代」と呼ばれ、アテネは「名目上は民主制だが、実際は一人の支配だ」とまでいわれたりします。そしてまた、ペリクレスも、歴史家ツキジデスから、「彼ほど心底民主制の擁護者である者はいないが、彼ほど民主的でない者もいない」といわれたりします。彼は、民主制の守護者として、民主制を強く擁護し、そのことで主権者である民から、守護者=指導者=支配者であると認められた、ということでしょうか。あるいは彼自身もまた、自らを、演説のことばで民を説得し誘導し指導する「為政者」であって、誘導される「民」の側にはないと自認していた、ということでしょうか。
 よく知らない大昔のことについて、これ以上書くと専門家に笑われますが、ともかく、ペリクレスの死後、民主制という制度は残っても、説得より扇動する指導者に替ったアテネは、いわゆる民衆支配、衆愚制、ポピュリズムに走り、戦争に巻き込まれて没落してゆきます。もしかして、そのことは、民が主権者という民主制は、民を導き逸脱から守る守護指導者の安定支配がなければ正しく維持できない、という意味なのでしょうか。

 ・・・というわけで、対立抗争がなければ民主的でない。守護者指導者がいなければ民主制は逸脱していまう・・・のだともしすれば、どうも実に困ったことですが、しかし人類は、いまだ民主制以上の制度を思いついていないのですから、これで何とかやってゆく他しようがありません。

2025年の「民主主義」

 戦争も虐殺も終わらないまま一年が終り、新しい年が始まりました。

 それにしても、資本主義はいうまでもなく、その共犯者とまでいわずとも同伴者として前世紀から生き延びてきた「民主主義」あるいは「民主制」もまた、世界に安心も平穏ももたらさないことが、いよいよ明白になった2024年でした。民主主義と民衆主義(ポピュリズム)が錯綜し、リベラリズムリバタリアニズムが入り混じり、自由主義新自由主義輻輳する時代。 

 韓国では、戒厳令を知った市民や野党議員が「自由と民主主義」を守ろうと議事堂に駆け付けて戒厳令を撤回させましたが、大統領の方も、戒厳令の宣言は「自由と民主主義」を守るためだったと主張していました。アメリカでは先年、トランプ支持者たちが大統領府に暴力的に侵入して民主主義の破壊者だと糾弾されましたが、彼等もまた、自分たちこそ選挙の不正を糺して民主主義を守るために行動したのだと主張しました。尹大統領は遂に拘束されたようですが、トランプは間もなく大統領に就任します。
 年末に、1972年アメリカのTV番組を回想するドキュメンタリをたまたま見ましたが、ジョンレノンらが、愛と自由と平和のための行動を、若者たちに呼び掛けていました。既成の権威やマスコミを信じないで自分で見て自分で考え、そして投票しよう。そうすればアメリカは変わる、世界は変わる、と。それから半世紀。既成の権威やマスコミを信じないで自分で見て自分で考え、そして知事選投票に行った人たちが、斎藤と書いたようです。
 齊藤知事の再当選を、「社会の底が抜けた」とまで表現した人がいました。あんな人物に投票したのは、それなりにファクトチェックのあるマスコミ情報を拒否してSNSの怪情報世界だけに生きる者たちに違いない、といった意見もよく聞きました。まあそういうこともあるのかどうか、少なくともSNS広報のプロが噛んでいたようですが、しかし、あれはむしろマスコミが作ったドラマだったように思います。前知事時代には連日のように追及記事を出してていたテレビや新聞は、辞任すると決着が着いたかのように追及を止め、代って、一人駅頭で毎朝頭を下げ続ける前知事の姿を何度も報じながら、「出直し選挙」「出直し選挙」と、同じ見出し語を繰り返し使い続けたことで、選挙は「齊藤前知事の出直し」が成功するかどうか」という、分かりやすいドラマイベントになりました。県議全員からも全政党からも全市長からも、そしてマスコミからも、つまり既成権威の全てから糾弾されながら、ひとりめげずに闘う候補者、という視聴者参加型ドラマ。齊藤と投票用紙に書くことで、「リベンジ、倍返し」という大好きな日曜ドラマに参加したつもりになった人がいてもおかしくありません。
 辻浩平氏は、トランプが強大な「コンテンツ」になった、と書いています(『トランプ再熱狂の正体』)。「選挙不正があった」「犬を食べる」などは虚偽であることを、記者もメディア経営者も、もちろん分かっていましたが、しかし「選挙不正があったとトランプがいった」「犬を食べるとトランプがいった」などは真実です。新聞やテレビが、コメントなしでそのような<真実>を報道すれば、支持者たちは「犬を食べるらしいぞ」などとヒートアップする。そのことが分かっていながら、部数減少で危機的な新聞社は、倒産を免れるために、そのような<真実>を流したというわけです。テレビも同じ。そういえば、SNSでフォロワー数を増やして金を稼ぐのにも同じ手法が使われます。

 ちなみに、私が、「これは、またトラかも」、と感じたのは、小さい記事で見た有権者のことばからでした。「ハリスは聡明だし有能だ。だからトランプに入れようかと思う。トランプなら馬鹿やってくれそうじゃないか」。当初いわれていたラストベルトだけではなくシリコンバレーも、プアホワイだけではなくヒスパニックや黒人も、田舎の共和党支持者だけでなくこれまで民主党に投票してきた都会人も含めて、かなりの人々が、「聡明で有能な」エリート・エスタブにやられていると思い始めているようです。
 正義感ほど怖いものはありませんが、被害意識はそれ以上に怖い。ある人からの賀状に「剣呑な時代になりましたね」とありましたが同感です。

少子化 続きの続き

 で、何の話だったか忘れかけたが、子育てである。労働力商品は特殊であって、その生産(再生産)は、短期的には明日もまた元気に職場に出勤することであり、長期的には退職と引き替えに職場に元気な子どもを就職させることである。合わせた費用(労働力の再生産費)が(労働の対価と見なされる)労賃であるが、本来資本がすることは金を払うところまでで(実際にはもっと複雑で企業サービスや福祉政策が伴うが)、工場労働は強制できても、「明日のために食事をして健康を維持せよ次世代のために子供を育てよ」という強制はできない。それらは労働者のプライベート領域であって(と見なされ)、食欲と子育て欲という「自然」(と見なされるもの)にまかせられる。
 曲者は後者である。
 前にもいったように(と思うが?)、実際の資本主義は家父長制も性差別も大いに利用するが、しかし近代(資本主義)は、それら「経済外的」な社会モメントを強く「批判」する。
 ところで、近代資本主義の原動力は「分業」であるが、それら分業体を複雑に組み立てて付加価値の複合体である商品を作り上げてゆくのは取引(交換)である。もちろんここでも、実際には世の中アンフェアなトレードだらけなのだが、本来資本主義は取引過程がフェア(等価)でも生産過程で利潤が生みだされるというシステムであって、近代(資本主義)は、アンフェアな分業を「差別と支配の源」だと「批判」する。
 性的分業はどうか。農業と繊維産業の「経済的」分業は問題ないが、「アダムが耕しイヴが機を織る」分業は、性差別と家父長制支配の源として「批判」される。それでも、仕事を取り替えたり二人でしたりすることで、批判は回避できるだろう。だが、農産物や布地の生産ではなく、明日の自分や次世代の自分の「再生産」は?
 これまで、「子をなす」「子育て」などといいつつ、意図的に「妊娠、出産」という語を使ってこなかった。マンガはもちろん小説やドラマや映画では、昨今の驚異的な技術展開を更に進めて、培養槽やクローンやアンドロイドといった(性分業なしの)「(人間の、または代替の)労働者の生産」をめぐる話が溢れている。今そういった話がしきりに創られるのは、妊娠出産という生身の性分業が、今のところ入れ替えも共同作業も不可能な「固定された分業」だからだろう。
 農耕と機織りはもちろん軍隊と売春も、今やアダムとイヴに固定されてはいないが、妊娠出産だけは、一方的なハンディキャップとして固定されている。人種別でも性別でも何でも、否応なく割り当てられ固定される分業は、近代(資本主義)の「批判」対象である。
 いつの間にか、怪しいトンデモ説のようになって来たが、行き掛かり上、仕方がない。「資本(主義)」は少子化に困って女性が「産む」ことを熱望するが、「近代(資本)主義」は女性(だけ)が「産む」ことを「批判」せざるをえない。政府が「女性活躍」というのはモノ、サービスの生産活動のことであって、間違えてもヒト(子ども)の生産活動のことではない。大っぴらには絶対言えない。(続く)

続き

 続き、といっても、少子化については、詳しいデータの分析に基づく専門的見解も政策的議論も山ほどあるだろうし、素人が口をはさむようなことは何もない。社会学も経済学も怪しい、いい加減なことを書くだけなのだが。
 現代の資本主義は、子育て欲求という「自然」を「社会的」にバックアップしきれなくなっているというのは正しいとしても、では、子育て世代だけでなくもっと若い世代から十二分のバックアップがあれば、そしてさらに「こんな時代こんな国で」などといわれるような将来不安も払拭されれば・・・つまり仮に万一、世間で少子化の原因といわれるような、あらゆる社会的条件が整えられればということだが・・・人はみな生涯に3,4人以上の子育てをするのだろうか。 
 資本主義は、奴隷制でも家父長制でも人種差別でも性差別でも、その他何でも利用するが、しかし、それらを元のまま「正当に」利用はできない。資本主義とは、経済外的強制を経済的強制に置き換える「主義」だからである。近代(資本主義)の「批判」思想は、人の平等を何より主張し、あらゆる「経済外的」な不平等を強く「批判」して、大富豪とホームレスの「経済的」不平等を際立たせる。人の自由を何より主張し、不自由と束縛を強く「批判」して、身分奴隷を債務奴隷に置き換える。心ならずもしたりされたりすることはパワハラやセクハラと糾弾されるが、性産業従事者が心ならずも「金のために」したりされたりする行為は、「経済的」サービス業務として、批判思想であるフェミニストからも擁護される。(また続く)

人が減る

 「取り戻す」などという空念仏ポスターも見かけなくなった。もはやこの国は、「先進国」からも置き去りにされて「取り戻し」不可能ということが分かってしまったからだろう。といっても、歴代の政府を選んで来たのはわれわれであるし、置き去りにして先に進んでいる筈の米欧「先進国」連中にしてからが、皆殺しを止められないどころか批判すらできないのだから、そんな「先進国」に「先」はない。
 例えば、人口が減少している。
 確か白井聡氏がこんなことをいっていた(もちろん正確な引用ではないが)。資本主義では、労働力商品の価値、つまり労働者に支払われるべき対価は、労働力の再生産費である筈なのに、いまや労働者は子どもを育てられなくなっている。資本主義の行き詰まりが明らかだ、と。
 いわゆる「先進国」は、軒並み「合計特殊出生率」が2.0を遠く離れている。安心して結婚子育てできるだけの労賃、公的支援、社会的インフラが不十分で、つまり一国の総資本が労働力の再生産を支えられなくなっている。となると労働力も「外部」収奪で生き延びるる他なく、労働移民受入れで何とか凌ごうとするのだが、それもなかなかうまくゆかない。
 白井氏は、自らもそうであるような子育て家庭への公的支援がさしあたり必要だといっているが、他にも、結婚して産んで育てて学歴をつけて社会に送り出すまで(労働力の再生産)を支える様々な経済的社会的条件を整備しなければならない。それはそうなのだが、そして「先進国」の資本主義はその力を失っているというわけだが、では仮にそれら「諸条件」を高度なレベルで用意できたとすれば、外部に頼らなくても人口は維持できるのだろうか。
 ある程度は、実際に効果を上げている国もあるようだ。ただ、その構図は、「多くの人が子育てをしたいと思っている」こと、いうならば、子育てが「自然的欲求」であることを前提としている。しかしもちろん、ここでも「自然的な事柄は社会的な事柄」である。
 どんな社会でも、100%の人が子をなし100%の幼児が壮年まで育つわけではないから、内部だけで人口が維持されるためには、人は少なくとも3,4人以上の子育てをするのが「普通」でなければならない。長年、その「普通」が自然(当然)とされる社会的強制の下で、人は暮らして来たのだった。(続く)

ガザ 皆殺し

 ガザで起こっているのは、戦争ですらない。皆殺しである。人は、躊躇なく幼児を殺せるほど、何故かくも愚かなのか。
 しかし、そうではない。    
 縄ばりに侵入した敵を全力で攻撃する獣や鳥や魚は、相手が背を向ければ殺しはしない。しかし智慧の実を食べた人間は、明日のことを考える。報復のリスクをゼロにするには、背を向けた敵を殺すのが正しい。漁師は小魚を逃がし、猟師は子連れを逃がす。絶滅のリスクを考えるからだが、その同じ智慧で、絶滅させたい雑草は根から抜き、絶滅させたい敵の幼児は殺す。根切、三光、ジェノサイド。「正義」の軍は、一人のゲリラが逃げ込んだかもしれない村に火を放ち、全員まるごと焼き殺す。森を愛するナウシカは、一本の樹に胞子が侵入したことを知ると、賢明にもその森を焼き払う。
 愚かさと狂気ではなく、智慧と「正義」が、幼児を殺す。