ろくでもない連中を当選させて、ろくでもない目にあってしまう

 最近のことについては、もう書く気もしないのですが、それにしてもますますひどいこと、あきれるばかりです。とはいえ、ああいう連中の権力は、当選に由来するのですから、つまりわれわれが、ああいう連中にああいうあきれるようなことをさせたり、言わせたりしているわけで、思えばますます暗澹たる気持ちになるばかりです。オリパラも、スポンサーのマスコミは、片隅良心の証拠を社説やコラムに残しておくだけで、スポーツ欄ではすっかりやる気ですし、みんさんの気持ちも少しづつ動いて、もし始まれば、たとえコロナの新たな波が来たとしても、「ニッポン」を応援しするのでしょう。もはや何をかいわんや。

自由ではなく自由に決める

 義理人情のしがらみ話など掃いて捨てるほどありますので、何でもいいのですが、忘れていた岩明均ヒストリエ』の10,11巻を買って今手元にありますので、さしあたりそれにしましょう。

 主人公の書記官エウメネスは、名門将軍の姪エウリュディケと思いあう仲なのですが、突如、彼女がフィリッポス王の第七王妃になることを知らされ、彼女に会いにゆきます。

 「第七王妃になるんだって」
 「そう。わりと急な話だったんだけどね」

 「あなたには・・・申し訳ないと思ってるわ。ごめんなさい」
 「きみの気持ちはどうなんだよ! きみの・・・!」
 「女の気持ちは関係ない・・・わが一族の誉れよ。私自身光栄の至り」

 そして彼女は、こういいます。
 「たとえ奴隷の身分でなくとも、誰もが憧れている"自由"は、結局は柵で囲われた「庭」なんだと思う。広い狭いの違いはあっても、地平線まで続く"自由"なんてありえない」

 エウメネスは返します。
 「柵か・・・ ~ 本当に囲いがあるのか見に行ってみようよ。ひょっとしたら地平線の先まで、柵なんて無いかもしれない」
 「行こう!王妃なんかやめちまえって!」
 しかしエウリュディケは動きません。

 「もう・・・決めたのか・・・」
 「うん・・・」
 彼女の頬を涙が伝います。

 エウリュディケは「自由」ではありません。しかし「自ら決めた」のです。彼女は、王妃に「された」が王妃に「なった」。もちろん王との婚礼もカツアゲも、特殊場面ではありません。「誰もが」自由に憧れ、しかし自由ではなく、けれども自由に「決める」のです。(もう少し)

させられなくてする

 やたら学者とか文献とかが出てくるような本はたていてい面白くありませんが、趣味の世界というのはそういうものですから仕方ありません。例えば、普通にしていれば時間とは何か分かっているのに考えようとすると分からなくなる、というようなことを、アウグスティヌスだったか他の人だったかが言ったそうですが、なら考えなければいいじゃないかと思うのが健康的な庶民で、でもそういう趣味の世界があって、例えば、時間は連続しているのか、しているとすればどんな種類の連続かとか、時間のはじまりはビッグバンからか、もしかして5分前からかも、などといった話を楽しんでいるわけです。

 で、自由というのも、その手の古典的な話題ですが、西洋では、結構真剣に議論しなければならない事情があって、あちらでは、世の中はすべて神様が動かしているのに、何事にせよ責任は人間がとらねばならないという、やっかいな問題がありますので、自由意志なるものが、神学とか哲学とかの学者世界で問題であり続けてきたわけです。
 しかしわれわれ庶民の間では、例えば町内旅行会のチラシに、「参加自由」とか「自由時間」とか「自由席」とか書いてあったとして、それらの意味は「必要十分」に分かります。それも、「お持ち帰り自由っていったって、あんた、そんなにもらったらまずいでしょう」、などと複雑なわけです。

 そこで、「する/される」と「させる/させられる」ですが、自由な行動(自由意志による行動)とは、「させられてするのではなくする」行動だといってよいように見えます。仮に、何かを「させる」ものを(神様ではなく)権力といっておけば、権力に「させられるのではなく自ら進んでする」行動で、そんな行動があるのかどうか、そんな自由意志なるものがあるのかどうか、なのですが。
 いずれにしても、しかし、カツアゲのような明白単純な関係行動などというものは基本的に子ども世界の話であって、大人の世界には実に悪い奴がいて、「彼が勝手に「した」だけだ、私は何も「していない」」、などといい、可哀そうな彼は、勝手に忖度を「して」勝手に書類の破棄を「した」ということに「されて」しまいます。もちろん、「忖度させられた」「破棄させられた」のであって、つまり「せざるをえないようにさせられた」のだ、と同情する人も少なくないのですが、悪い奴らは巧妙で厚顔ですから、破棄「しろ」忖度「しろ」などと言っていない、つまり「させた」のではないから「させられた」などというのはイチャモンだ、と開き直り、彼を罰したりまでするのです。(まだ続く)

させられてする

 しかし、これは別に難しい話ではありません。
 アメリカ人は、能動/受動だけの英語を使っているので、毎日何百何千と開かれてる法廷でも、「やった/やられた」という単純ガサツな議論をしているかというと、もちろんそうではないでしょう。カツアゲは、「脅されて渡す」と別動詞ですが、われわれ庶民はみんな、日々「働かされて働いている」と同じ動詞の両面です。

 その上、「明日までなんて無茶だよ、やってられないよ全く」とぼやいているので、「私が課長にいっておくから、サービス残業なんかやめて、帰ればいいよ」というと、「でもまあ、何とかやりますよ。この仕事嫌いじゃないし」というので、「やらされてるのじゃなく好きでやっているというのなら、何もいわないけど」というと、「いやいや命令されなきゃやりませんよ。でも好きでやってるとでも思わないと、やってられませんからね」というから、「まさにサービス搾取ね。やらされてるのに、自分からやってるという気持ちとは」というと、「自分からやっているというより、自分からやっていると思おうとしている、ということかな」とか、・・・まあそんな具合に暮らしているのが庶民の世界です。(短いけど眠い)

みんなカツアゲ

 (承前)面白い話題、と書きましたが、それは、学術的な装いの本の真ん中に、「カツアゲの問題」という下世話?な見出しが面白かったという意味であって、予想外の問題が予想外の仕方で取り上げられている、というようなことではありません。

 例えばスリ(掏摸)にやられた場合には、「スる」のはあちらで、こちらは何かを「する」のではなく、「金を取られる」、「られる」被害者です。ところがカツアゲにやられた場合には、「金を取られる」のは同じでも、こちらが「金を渡す」ということを「する」わけです。ということで、カツアゲの問題には、「人が何ごとかをなすとはどういうことか、人が何事かをさせられるとはどういうことか、という原理的な問題」が、典型的な形で露呈している、と国分氏はいいます。もちろん氏は、カツアゲ問題をも、アリストテレス、カント、フーコー、それにハンナ・アレントといった大文脈の中にそれを置いて、重々しく論じるのですが、ここではそんな難しい話に入ることはできません。

 カツアゲは金を「取-られる」のか金を「提供-する」のか、「られる」のか「する」のか、といったようなことに、庶民は全く悩みませんが、学者世界では「られる、する」の境が問題なのでしょう。しかし、「される」のか「する」のか、という問題は、「する」とはどういうことか、何をもって「する」というのか、という問題に帰着します。そして、(自由に、主体的に、自ら、自発的に)「する」とは一体どういうことをいうのか、という問題は、氏もいうように、結局定義の問題になってしまいます。

 一方、カツアゲをする方はつまり「権力」ですが、昔のいい方では、人を縛り自由を奪って、したいことを「させない」のが権力であって、現に、カツアゲでは、相手が「逃げたい、逃げよう」とするのを力で阻みます。ところが、フーコーは、権力は「させない」のではなく「させる」のだといったわけで、実際、力を行使して、金を「出す、渡す」ということを「させる」のがカツアゲです。「させない」権力観から「させる」権力観へ。

 しかし、そうだとすると、われわれは、「どこでもカツアゲ」スプレーをかけられているようなもので、カツアゲが「脅さーれ」て金を「渡ーす」つまり「されてーする」のと同じように、われわれは、日々何かに「するように-させられ」て「何かを-している」ことに気づきます。(眠くなったので、あとはまた:続く)

カツアゲ問題

 國分功一郎『中動態の世界』という本が面白いという人がいたので読んでみました。
 「意志と責任の考古学」という副題が付いていますが、考古学といってもいわゆる知の考古学というか、人文学系の諸分野を縦断して、颯爽と進められる論には間然する所がありません。

 英語の動詞型にはヴォイスというものがあって、能動態と受動態が区別されます。いい換えると動詞を用いて表される事態を、能動/受動という枠組みで捉えるわけです。
 日本語では、能動受動は、「する/される」と、動詞に「れる、られる」を付けることで表されることになっていますが、ただ日本語には、「私は彼に、座らせてくれようとしてもらえた」といった「れる、られる」抜きのややこしい表現や、「雨に降られた」といった独特の表現もあって、後者は「迷惑の受動態」などといわれます。おそらく英語に引きずられて「れる、られる」付きの動詞型を「受動態」といってしまい、そこから「迷惑の受動態」というようなものを作らねばならなくなるのでしょう。現在形/過去形を「する/した」と翻訳するのと同じで、一部の「国文法」の先生からは、「た」は過去ではなく完了であって日本語には「過去形」はないのだ、などといわれそうです。
 まあ、そんなことはいい加減な横道ですが、英語では「能動/受動」という動詞型を使って表すことがらも、日本語はじめ言語文化が異なれば、同じことがらを捉える枠組みも、対応する語型も当然違います。

 国分氏は、日本語の他にはせいぜい初級英語位しか知らないわれわれにはまるで無縁な言語や古代の諸言語までを次々と取り上げ、そこに見られる、「能動態」でも「受動態」でもない「中動態」という動詞型とその表現世界を紹介してゆきます。そして、アリストテレス以下たくさんの哲学言語学以下人文学者を援用しつつ、世の中には「する/される」の対立では説明できない事態があると「能動/受動という捉え方」を崩しつつ、「する」と「される」の境目が問われている今こそ、「中動態」を問題にする意義があるのだと結論づけます。

 「する/される(させられる)」問題、つまり人は「するのか/させられるのか」という問題は、人の自由意志を問わずにはいらない西欧思想の王道問題であり、また歴史社会における人の責任を問うという現代社会の大問題でもあって、アイヒマン天皇だけでなく、我々自身も含めて誰もがこの問題から逃れられません。そんな大問題に、簡単に口出しすることはできませんが、大著の途中に、「カツアゲの問題」というのが出ていて、これはちょっと面白い話題でした。(続く)

なめられている8割

 「復興ゴリン」が汚染水放流、「おもてなし」が観客締め出し、「コロナに勝った証」が国民大感染下での強行。もはや何をかいわんやです。  
 しかし、一番欲しいのが支持率だとすれば、8割以上が反対する強行姿勢をなぜ維持し続けるのでしょうか。もちろん国民以上に怖いアメリカから是非やれといわれているなら別ですが、今回はそうではないようですし。
 それでも強行しようというのは、もっと欲しいものがあるからなのでしょうか。金か利権か両方か。でもその辺の追求はなくて、マスコミは、「五輪代表決まる!」というニュースを連日報じて、頑張って出場権を勝ち取ったこの選手に出場させてやりたい、という雰囲気を作っています。

 しかし・・・ これだけ反対の声大きいのに、これだけ国民が支持していないのに、という疑問は、間違っているのかもしれません。もちろん、金や利権その他のこともあるには違いありませんが、それでも、国民から支持されなくても強行するのだ、というのは、余りにも計算が合いません。
 しかしもし、国民に「支持されなくても強行する」というのではなく、国民は「強行すれば必ず支持する」、と思われているのだとすれば。
 いま反対していても、開会式をマスコミがブチあげて、連日の競技が始まれば、熱狂国民はコロッと意見を変えて、「やってよかった」「強行姿勢を貫いた政府はエライ」となるに違いない。どうやらそう思われているフシがあります。
 「国民」はなめられているのです。
 確かに、モリカケサクラをすっかり忘れて三度目の安倍でも受け入れかねないのでは、なめられても仕方ありません。