2013-01-01から1年間の記事一覧

 妖怪の孫が突破する

ジングルベルの鐘の声、諸行無常の響きあり、驕れる者は久しからず、五輪の事は夢のまた夢・・・となりましたが、ちょうど1年前、圧勝当選した時の報道写真を見ると、背後のポスターに書かれている大きな文字が、「決断、突破、解決力」。 ご承知のように、…

 ふるアメリカにずぶぬれに

アメリカという国は、とにかく戦争をしていないと経済が持たないらしく、あちこちで破壊や殺人をしまくってきましたので、どうしても、アメリカを怨んでいる「敵」が、世界中にいっぱいいるのではないかと、大変不安なのでしょう。空港では物すごく厳重な身…

 追記:一番上には

都知事が次第に追いつめられていますが、猪瀬氏のうさんくささをとっくの昔から指摘していたのは、ウワシンこと『噂の真相』でした。しかしウワシンは、数年前に、惜しまれながら終刊を迎えます。編集発行人だった岡留氏によれば、ウワシンを打ち切りにせざ…

 強権国家を求めて

昨日は13日の金曜日。ナンバー2が即刻処刑されたというニュースが駆けめぐりました。「国家」に反逆したということだけであとは秘密のヴェールの中ですが、こちらでは、ナンバー2がもはや羊の皮さえ脱ぎ捨て、「国家」は国民を秘密の内に支配する権利があ…

 軽自動車とカシミアと秘密保護法

ところで、半藤氏が新聞を見て「愕然となり」「まさしく怒り心頭に発し、それを報道しただけの新聞に罪はないのに、ビリビリ引き裂いてしまった」というのは、自民党の憲法改正草案21条の中の、「公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並び…

 "It is too late?"(Othello)

○ 「戦後最大の悪法」「平成の治安維持法」・・・が、一部「野党」の率先翼賛化により、僅か2時間の審議で衆院本会議で強行可決されました。 ○ 「11日、TVキャスターたちが「秘密保護法反対」の記者会見を開いた。筆者(田中龍作氏)が「遅きに失したのでは…

 下町はえらい3−3

(先日は、夜UP翌朝削除(^o^)、失礼しました。少し忙しい上に、どうもうまくゆかないので、中断しようかと思いましたが、まあ、続けます。) 改めて、こういうことでした。 「宮崎さんは今度の作品では、かなりしっかりと昭和史を描かれたなあ、と思いまし…

 謹告

昨夜朦朧UPした(^o^)のですが、今朝読むとまずいので削除しました。改めてUPします。m(_ _;)m ○新聞見出しの読み方: 「報道の自由は守れるか」「取材は業務」 (特定秘密保護法案には本格的に反対しませんので、記者クラブの取材だけはできるようにし…

 下町はえらい3−2

さて、「零戦の開発がスタートした」年であり堀辰雄が『風立ちぬ』を書いた年である1937(昭和12)年。関東大震災で壊滅した東京は、今も変わらぬ都会優先、景気優先政策により、力強く急速に復興しています。 半藤: 〜昭和十二年というのは、日中戦争が始…

 下町はえらい3

(3) さて、そういうわけで、総力戦の銃後で武器をフル製造しても翼賛体制の一翼を担っても、「庶民」は免責されるようですから、例えば大陸で残虐行為をしても、命令で強いられた「庶民」兵士は免責されるでしょう。責任は、ひとえにオカミにあり軍部にあ…

 下町はえらい2−2

少年時代から宮崎駿氏は、「あのバカな戦争をやったせいで起きた酷い話」をいっぱい聞いり読んだりしたそうです。空襲にまつわるいろんな酷い話。また、日本軍が「中国へ行って酷いことをやって、南方に行っても酷いことをやって、多くの日本の兵隊さんが餓…

 下町はえらい2

(2) (いくら無謀でも、まだ観てもいないの映画のことを論じるつもりは毛頭ありませんが、話の都合でちょっとだけ触れさせて頂きます。) 町山智浩氏は、「風立ちぬ」の主人公は「モノ作りに取り憑かれ妄想世界に生きるオトコノコだ」といった主旨のこと…

 下町はえらい1

ちょっと番外を入れさせて頂きます。 おかしなタイトルで、三題噺というか三段跳というか、相変わらず勝手な雑文で恐縮ですが。 以前は養老孟司というお名前を多く目にしましたが、最近、というかかなり前からですが、内田樹という方のお名前をよく見かけま…

 漱石 1911年の頃 34:ハリツケと給料1

一ヶ月空いてしまいました。 近隣諸国にケンカを売って緊張を作り出し軍事強国への道を当然と思わせる一方、津波と原発事故をそっちのけどころか「ダシ」にしてTOKYOゴリンを招致して人心を浮つかせる。そんな作戦に乗って、世の人々がみんな浮かれていると…

 漱石 1911年の頃 33:意識と波3

核兵器絶対不使用を消した政府は、アジアへの反省を消し、不戦の誓いも消しました。しかし、問題は、そんな政府への支持が高いことです。多くの人が、「あの国やこの国はけしからん。そんなことなら、また戦争してやろうじゃないか。少なくとも、またやるぞ…

 漱石 1911年の頃 32:意識と波2

さて、前回ご紹介した意識の流れの分析は、「西洋の學者」の受け売りです。 ところが、大文豪にこんなこというのも何ですが(といいつつエラい人に不当な(^o^)言いがかりをつけるのがこのブログですので、もちろん気にはしませんが)、ここから、漱石の論の…

 漱石 1911年の頃 31:意識と波1

有名な漱石の「現代日本の開化」は、近代の日本思想史を考える際に重要な講演だ、と考えてきた人は少なくないと思います。というか、実は私もその口ですが。 しかし、いつもながらへそ曲がりで恐縮ですが、「文豪夏目漱石が話した」というプレミアムをはずし…

 漱石 1911年の頃 30:何かと何か3

原爆の日。「ナチスの手口を学べ」という副総理を問題にしない日本政府は、アメリカが核兵器を使用できなくなるのはまずいと、核兵器絶対廃絶の共同声明に参加せず。広島市長が、「威嚇によって安全と平和が守れるというのか」と批判。 こちらは昔のことばか…

 漱石 1911年の頃 29:何かと何か2

さて、話に戻ります。 長野講演と関西講演の演題を、改めて全部並べて見ましょう。 6月18日 教育と文芸 長野 8月13日 道楽と職業 明石 8月15日 現代日本の開化 和歌山 8月17日 中身と形式 堺 8月18日 文芸と道徳 大阪 すぐ気が付くように、和歌山以外の講演…

 北のような国になりたい

福島も沖縄も憲法も原発もTPPも増税も福祉もその他全ては遠くのこと先のこと、とにかく今日明日、目先の景気だ、という予定通りの結果になりました。もちろん景気とやら自体が怪しいのですが、それもまた先のこと。 いま民主主義といわれているシステムは、…

 漱石 1911年の頃 28:何かと何か1

世の中には理不尽なことが既に余りにも多いのに、その上さらに次々と理不尽なことが起こります。駄文はそろそろ終わりにしましょう。 寄り道ばかりしてきましたが、出発点は、単純なことでした(→念のため、こちらです)。漱石が1911年に和歌山でした「現代…

 漱石 1911年の頃 27:食堂車と人力車3

*(先日15日の記事で勝手に引用言及させて頂いた藪野さんから、コメントを頂きました。「こころ」の人物年令や家の間取りについて興味を持たれた方は、コメントをご覧の上、藪野さんのサイトをご訪問ください。) さて、漂流ばかりが長くなってしまいました…

 漱石 1911年の頃 26:食堂車と人力車2

「行人」の、南海鉄道の食堂車で昼食をとる場面です。もっとも小説には「南海」という名はありませんが。 「翌日朝の汽車で立った自分達は狭い列車のなかの食堂で昼飯を食った。「給仕がみんな女だから面白い。しかもなかなか別嬪がいますぜ、白いエプロンを…

 漱石 1911年の頃 25:食堂車と人力車1

リサイクルの古本屋で、偶然今度はちくま文庫版『こころ』の、小森陽一氏による解説をパラパラしました。立ち読みですので、もちろん正確では全くありませんが、こちらは菊田氏とは正反対。「君、理論の言葉は灰色で、緑なす生命の樹は黄金色だよ」。性愛を…

 漱石 1911年の頃 番外3-2:アラサー

「先生」は、帝大に進んで、お嬢さんのいる下宿に入りますが、菊田氏は、「当時先生は二十四、五歳になっていたはずである」と書いています。けれども、教育制度史には不案内ながら、その頃の東京帝大生のストレート・モデルでは、20才か21才入学としてもよ…

 漱石 1911年の頃 番外3:入学年令

失礼が過ぎましたので、320円で買いました(^o^)。本文を読まない本を買ったのは初めてですが、早速訂正させて頂きます。吉永みち子さんのことばは、こうでした。「己の心のありようも愛の本質もその残酷さも知っていたのは奥さんの方だったのではないかと思…

 漱石 1911年の頃 番外2:学問と縫針 

事情で本編は先送りにし、番外で繋がせて頂きます。 前回、「女を見くびっている」という、少し不穏当な表現をしましたが、あれも漱石いや「先生」の言葉の引用です。『こころ』については、後に別の形で取り上げるつもりですが、もともと「先生」は、女性の…

 漱石 1911年の頃 番外:見くびられる私たち

前回は、乱暴なひとまとめを目指して虞美人草からはじめた以上、「こころ」まで行くつもりだったのですが、余りにも長くなりましたので、次の機会にまわすことにしました。あれもまた、乱暴にいえば、先生と私とKという男たちが、人生や人間の謎にさんざん…

 漱石 1911年の頃 24:イプセンとイノセント3

「若し日本の婦人がノラを見て所謂覚醒したと言ふ様な事を言ふ様になつたら余程考へものである。〜然し今の所先ず其の心配は無用だと信ずる。ノラを生囓りして覚醒する様な婦人は無い事と安心して差支あるまい」。漱石は、そういったのでした。けれども、フ…

 漱石 1911年の頃 23:イプセンとイノセント2

ノラといえば松井須磨子。11年秋のノラを、漱石も招待されて観に行きます。例えば花柳章太郎に「須磨子をみて女形をやめようかと思った」と言わせた程の演技でもあったそうで、とにかく大変な評判になった須磨子ノラですが、漱石は、11.28.の日記で、「すま…