2007-04-01から1ヶ月間の記事一覧

 謝罪と革命

昨日の新聞。 アベがアメリカへ行って「謝罪発言」をし、ブッシュが「首相の謝罪を受け入れる」といったという。英語では何といったのか知らないが、少なくとも日本語としては、第三者であるブッシュが「謝罪を受け入れる」というのは、ヘンである。 しかし…

 1897-32:水の昼食

イギリスのあたりから、大ざっぱ話になってしまった。辞書がいかん、と責任転嫁しておこう(笑)。 長すぎたので、残り物の整理だけして、ひとまず区切りにする。 周知のように、日本の鉄道が狭軌レールになったのは、インドの余り物の使い回しだったからで…

 <変>な新聞広告(1)「鬼才」片岡敏郎

最近ちょっと用があって、図書館の奥の機械室に机を置いてもらって、古新聞を調べているのだが、実に不思議なというか、「変!」としかいいようのない広告があった。何十年も前の新聞だから、載っている広告にも結構「変」なものは時々あるが、しかし、昨日…

 1897年-31:被害の意識

それをどう呼ぶかは別として、凄いスピードで次々と大量のモノを作り出す新しいシステムが、いったん世の中に出現して居座ると、システムに日々与えねばならない大量の原料や燃料つまり「資源」の供給先と、システムが吐き出す大量の「製品」の売りさばき先…

 1897年-30:三角貿易

肩肘張らずに、のんびり道草話をしたいと思っているのに、ちょっと四角なだけの話になってしまった。といいながら申し訳ないのだが、話の行きがかり上、関連する「三角貿易」についてだけ付け足しておく。 「三角貿易」についても、辞書を引いてみると、こう…

 1897年-29:帝国主義

東インド会社が貿易独占権をもつインド綿布が、イギリス国内及び海外市場で毛織物を圧倒するという事態に直面し、イギリス産業資本の起死回生の反撃がはじまる。 画期的な高性能の綿紡績機、織機および動力機関を開発し、低賃金労働者を長時間働かせて、イギ…

 「正しい」言論

(翌日書換) アメリカの大学での銃による大量殺人事件を聞いて、これにより流石のアメリカでも銃規制が必要だという声が大きくなるだろうが、厄介なことには、全く逆に、「事件をあれほどひどいものにしたのは、大学が銃規制をしていたからだ。銃規制が間違…

 1897年-28:糸車

「1897年」を仮の小タイトルにしたこの道草話の冒頭に、その年1月、三木清と、そしてチャンドラ・ボース(Subhas Chandra Bose)が生まれた、と書いた。 チャンドラ・ボースは、長じてインド独立運動に身を投じるのだが、そのシンボルのような人物が、いう…

 1897年-27:インドがない

もちろん<辞書>として、どんな国どんな産業にもあてはまるような、最広義の説明をするということになると、そうなろう。例えば、和辻がいうような機械織り綿糸に関わる産業革命は第一次のそれであり、重工業に関わる第二次の「産業革命」が後に続くのだ、…

 1897年-26:本家産業革命

和辻の回想は、こうであった。「私たちの村」で「明治二十年代の末から三十年代のはじめにかけて、台風のように吹きぬけていった」「産業革命」とは、目に見える形としては、「女たちが楽しそうに」作っていた「手織木綿」の着物が姿を消し、みんなが「紡績…

 1897年-25:きしゃの来る日

『ごろはちだいみょうじん』という、私の好きな絵本がある(福音館書店、こどものともえほん)。中川正文氏の文も、梶山俊夫氏の絵も、とてもすばらしい。 (部分) 「てんごしい」のたぬきのごろはちが住む村に、線路が敷かれ、「てつどう いうもん」がつい…

 1897年-24:ガス糸織の着物

道に戻る。 軍服や学生服だけでなく洋服紳士や洋服職業が増えたとはいえ、もちろん女性を含む大多数の人々はなお着物(和服)だし、洋服で外出する男でも、家では当然和服であった。だが、その和服もまた、昔と同じではない。 何度か言及したように、この年…

 格差の時代

選挙の季節である。東京では、外山恒一氏という、失礼ながら泡沫候補が、「革命家」と称して出馬した。You Tube で演説を見たが、独特の声で「少数者諸君!」と呼びかけていた。昔の「革命家」が呼びかけたのは、プロレタリアートという「多数派」であったの…

 1897年-23:山高帽

『金色夜叉』の道草が過ぎたが、とにかくそんなわけで、「活動紙幣」が世の中を動かす「実業の時代」になりつつあった。 ただ、では「実業の時代」とはどういうことか、ということになると、結構面倒なことになる。例えばこの年1897(明治30)年、動力使用の…

 1897年-22:活動する紙幣

寄り道ついでに、1905-6年の『吾輩は猫である』も覗いておこう。 ご承知のように、「猫」が活写するのは、中学の英語教師である苦沙弥先生とその友人や書生の楽しむ高踏会話の世界であるが、ここでも、世俗世界を代表する金田一家が対比的に描かれる。 「会…

 1897年-21:実業の時代

そこで、もう一度『金色夜叉』に戻る。 先にみたように、『金色夜叉』は、地位より金が、官吏より資産家がものをいうようになりつつある時代の流れを写している。鴫沢のような官吏を「知れたもんんだ」というのは富山である。だが、富山の家は「資産家」とい…

 1897年-20:実業家

もう一本横道に入って、『金色夜叉』の10年前と10年後を見てみよう。 自意識が強く、学歴も教養もありながら、否むしろあるが故に、自尊心が邪魔をして、世俗世間と折り合いをつけることができずに、その結果、心理的な自立希求と生活面での非自立との間で悩…

 1897年-19:資産と美貌

小説自体が問題ではないので、並べることにする。 富山唯継は、銀行の創始者で市会議員という「下谷区に聞ゆる資産家」を父にもち、その家督を継ぐ者である。 一方、間貫一は没落士族の遺児で、父に恩のある鴫沢に引き取られ、彼のおかげで、やがて学士とし…

 1897年-18:帝国大学

「類多き学士風情」・・・。なるほど帝国大学は、毎年「学士」を輩出する。例えば、連載開始のこの年1897(明治30)年、帝大卒業生は280人であった。(ちなみに、卒業後の最多は大学院進学など研究進学関係で合わせて73人、次が官吏の69人で、確かに「末は博…

 1897年-17:学士風情

「金色夜叉」にこだわり過ぎたが、あと少しだけ。 この小説は、読者の強い要望もあって何度も中断と再開を重ねながら、5年ほども連載されるが、結局、紅葉の死によって未完で終わり、謎が残ったままとなる。おそらく読者が一番知りたいのは、ヒロイン宮は本…

 1897年-16:学士様

書いたと思うが、漱石は松山中学で、月給80円。校長が60円だから、破格の初任給であった。 しかし、1918(大正9)年の大学令までは、「学士」と呼ばれるのは帝国大学の卒業生に限られており、しかも帝大はまだ他にはなかった。帝大出の学士様が松山まで赴任…

 1897年-15:弊衣破帽

ところが、さらに、第一から第五の高等中学校は、1894年の高等学校令で、3年制の高等学校に改組される。いわゆる「旧制高校」ナンバースクールである。(前述の通り、漱石が五高に赴任したのが96年。なお、書き忘れたが、官立高等中学校は2年制であった。…

 1897年-14:高等中学校

ところが、「金色夜叉」の書き出しはこうである。 「未だ宵ながら松立てる門は一様に鎖籠(さしこ)めて、真直に長く東より西に横はれる大道は掃きたるやうに物の影を留めず、いと寂くも往来の絶えたるに・・・」。 美文だろうが、古めかしい。 このような擬…