人が減る

 「取り戻す」などという空念仏ポスターも見かけなくなった。もはやこの国は、「先進国」からも置き去りにされて「取り戻し」不可能ということが分かってしまったからだろう。といっても、歴代の政府を選んで来たのはわれわれであるし、置き去りにして先に進んでいる筈の米欧「先進国」連中にしてからが、皆殺しを止められないどころか批判すらできないのだから、そんな「先進国」に「先」はない。
 例えば、人口が減少している。
 確か白井聡氏がこんなことをいっていた(もちろん正確な引用ではないが)。資本主義では、労働力商品の価値、つまり労働者に支払われるべき対価は、労働力の再生産費である筈なのに、いまや労働者は子どもを育てられなくなっている。資本主義の行き詰まりが明らかだ、と。
 いわゆる「先進国」は、軒並み「合計特殊出生率」が2.0を遠く離れている。安心して結婚子育てできるだけの労賃、公的支援、社会的インフラが不十分で、つまり一国の総資本が労働力の再生産を支えられなくなっている。となると労働力も「外部」収奪で生き延びるる他なく、労働移民受入れで何とか凌ごうとするのだが、それもなかなかうまくゆかない。
 白井氏は、自らもそうであるような子育て家庭への公的支援がさしあたり必要だといっているが、他にも、結婚して産んで育てて学歴をつけて社会に送り出すまで(労働力の再生産)を支える様々な経済的社会的条件を整備しなければならない。それはそうなのだが、そして「先進国」の資本主義はその力を失っているというわけだが、では仮にそれら「諸条件」を高度なレベルで用意できたとすれば、外部に頼らなくても人口は維持できるのだろうか。
 ある程度は、実際に効果を上げている国もあるようだ。ただ、その構図は、「多くの人が子育てをしたいと思っている」こと、いうならば、子育てが「自然的欲求」であることを前提としている。しかしもちろん、ここでも「自然的な事柄は社会的な事柄」である。
 どんな社会でも、100%の人が子をなし100%の幼児が壮年まで育つわけではないから、内部だけで人口が維持されるためには、人は少なくとも3,4人以上の子育てをするのが「普通」でなければならない。長年、その「普通」が自然(当然)とされる社会的強制の下で、人は暮らして来たのだった。(続く)